第八十四章 風を録る、波を聴く
早朝の湾岸エリア。
ヘイリーはショルダーに録音機材を背負い、あやのとともに静かに歩いていた。空はまだ白く曇っており、貨物クレーンの影が長く落ちている。
「この場所、まるで音が眠ってるみたいね」
ヘイリーが呟く。英語混じりのラテンなアクセントが、どこか詩的だった。
あやのは耳を澄ます。
すぐそばでカモメの声が弾け、遠くでトラックのブレーキ音が地を震わせる。波音のリズム、その合間を縫って風が通り抜ける。
「風に“拍”がある。……揺れてる」
「Perfect. Let’s try the windpipe mic.」
ヘイリーが小型の風圧収音マイクを地面近くに固定する。
あやのがそっとその上に立ち、ハミングを始めた。
波と風に合わせて、音が自然のリズムをなぞるように微かに膨らんでいく。
──空間が呼吸している。
ヘイリーはその場にしゃがみ、録音機を見つめながら呟いた。
「音って、生きてるのね。あやの、あなたの声が風に溶ける」
「この場所が歌ってるんです、たぶん。……私、聴こえる気がする」
同時刻、「出る事務所」。
司郎が図面に赤ペンを走らせていた。回廊の設計に、今録音されている“音の記憶”をどう活かすか。
梶原が設置予定の骨組み図を見て口を開く。
「現場の風の方向と強さ、潮の干満、全部読み込んで構造決めよう。“自然の演奏”に負けない素材で」
司郎はうなずきながら、印刷された音響波形の上にペンで軽く円を描いた。
「これは風の息継ぎだな……。この呼吸を、建物に入れよう」
夕方、収音を終えたあやのとヘイリーが事務所に戻る。
データを見た瞬間、司郎の眉がピクリと動いた。
「これ……ただの環境音じゃない。……音のレイヤーが浮き出してる。記憶が層になってるみたいだ」
澤井教授が静かに言った。
「この土地は、時間の音を抱いている。港、軍港、倉庫、野鳥保護区……すべての“時代”が、この湾に眠ってる」
あやのは録音機をそっと胸に当てた。
「それを、私たちで起こすんですね。音楽で、建築で」
ヘイリーが手をあげて指を鳴らした。
「Let’s awaken Tokyo’s soul, baby」




