第七十九章 夜に鳴るもの
東京湾岸の現場に、夜の静けさが訪れていた。
仮設照明だけが点在する広大な土地。遠くで波がさざめき、風が杭打ち機の残響を撫でていく。
あやのは白いウィンドブレーカーを着て、中央に設置された簡易回廊に立っていた。
天井はまだ張られておらず、スチールフレームと一部の壁材のみ。それでもそこに、音は確かに“流れていた”。
「あやの、準備できたわよ」
ヘイリーがケーブルを手に、ポータブルアンプの調整を終えた。
回廊には、局所的に設置された音響反射板。夜風の中を、実験用の音が流れ始める。
──あやののハミング。
それに続き、ヘイリーのカホンが合わさる。あやのの声が風に乗ると、反射板を伝って音がわずかに跳ね返り、次のフレーズに呼応するように響きが“変化”した。
「……音が歩いてる」
梶原がぼそりと呟く。
「違うな。これは“音が戻ってきてる”んだ」
司郎が膝に図面を広げながら、感心したように唇を噛んだ。
澤井教授もその場にいた。背筋を伸ばし、耳を澄ませる。
「予測よりも──音の立ち上がりが早い。……空間が、音を育てようとしてる。これは偶然じゃない。設計が生んだ必然だよ」
あやのが振り返る。
「教授、聞こえましたか? あの“くるっと折り返す”ような残響……あれ、計算通りでした」
「まさかここまで再現されるとはな……いや、お見事」
教授の口調は穏やかだが、内心の興奮は隠せなかった。
ヘイリーが続けてカリビアンリズムを刻むと、あやのが即興でハミングを乗せる。
その音は回廊の奥へ向かい──曲がり角で“再び誰かが歌っているように”響く。
「まるで、建物が返事してるみたいだ……」
梶原が唸る。
そのとき、遠くの水面で、カモメが一斉に飛び立つ音がした。
風がふっと強くなり、あやのの髪がふわりと浮き上がる。
「……風が、合図をくれたね」
あやのが笑った。
照明が落ち、実験は終了。しかし全員の心に、何かが刻まれていた。
この建築は、
風と音と人間の呼吸がひとつになる場所。
それが「SoundGarden」の核になるのだと、全員が確信していた。




