第八章 石と風のあいだ
人混みのなかにいるときほど、あやのはひとりだった。
仙台。
広く整った通り、複雑な地下道、鳴子こけしの笑顔、青葉通りの木々――
そのすべてが目まぐるしく過ぎてゆき、人の顔も、足音も、数としてしか記憶に残らなかった。
身体は乾いていた。
心はなおさらだった。
遠野での半年が夢だったかのように、あやのの肌には都会の埃と排気がこびりついていた。
寝場所を転々とし、図書館で日を越し、店の軒先で雨をしのいだ。
もう追われてはいなかった。
それでも、誰かと目を合わせることはできなかった。
そんなときだった。
ある日、雨上がりのビル街を歩いていたあやのの目に、一枚の紙がふと映った。
濡れた柱に貼られた手書きの告知――
「助っ人募集 建築作業手伝い 宿・食事つき 体力不要」
その紙は、奇妙なほど雑で、異様に美しかった。
手書きなのに定規を当てたように真っすぐで、筆跡にぶれがない。
だが、何よりも気になったのはその最後に描かれた「印」だった。
手ではない。獣でもない。
まるで世界の余白を押し開けたような、空白の印。
あやのは、そのまま吸い寄せられるように地図の示す方向へ歩いた。
そこは、旧市街の外れに建つ、古びた煉瓦造の建物だった。
軋む階段。
鉄の匂い。
天井からぶら下がる裸電球。
埃と機材と図面の入り混じった、奇妙な気配。
その中央にいたのが――司郎正臣だった。
坊主頭に黒縁の眼鏡。
大工でも設計士でも学者でもなく、ただその場に「いる」ことが、既に異物のような存在感だった。
あやのはすぐにわかった。
この人は、何かを「見ている」。
外見や言葉ではなく、もっと構造的に、自分の中身をすでに解析されているような感覚。
彼は、何も言わなかった。
名を尋ねず、来歴を聞かず、身なりにも目を向けなかった。
ただ、一枚の図面を差し出し、鉛筆を一本、あやのに渡した。
それは「問いかけ」ではなかった。
まるで、すでに「答え」を知っている者が、その確認作業を始めたような、静かな所作だった。
あやのは、黙って鉛筆を受け取った。
その芯は、奇妙に柔らかく、紙の上を滑るとき、音が鳴った。
それは、遠野の川の流れと似ていた。
あるいは、ずっと昔に聞いた、風の声に近かった。
あやのは、そこで初めて――
逃げることをやめた。