第七十七章 響きを読む者
翌朝、東京湾岸。
前夜の実験に使われた音響機器が仮設のまま残され、潮の香りに濡れながら、静かな風景を作っていた。
そこへ、一台の車が到着する。
助手席から降り立ったのは、白いストールにベージュのジャケットを羽織った高齢の紳士──澤井教授である。
「いや、懐かしい匂いがするな……戦後すぐの東京湾を思い出すよ」
教授の目は年齢を感じさせない鋭さをたたえ、地面を踏みしめながら現場を歩き始めた。
司郎がいつもの無骨な作業服のまま、静かに隣に並ぶ。
「お待ちしてました、澤井先生」
「ふむ。昨夜のデータ、先に目を通したよ。……確かに“音の道筋”が出来つつあるな」
教授は言いながら、ポケットから古びた万年筆を取り出し、持参した野帳にメモを取り始める。
その間に、あやのが録音されたハミング音源を再生する。
澤井教授はそれをじっと聴き、風の音に混じる微細な響きまで耳を澄ませるように目を閉じた。
「これは……風景に染まる音だな。音楽でも、環境音でもない。境界が溶けている」
ヘイリーが続けてポンとパーカッションを叩くと、教授の口元がわずかにほころぶ。
「音の重なり方が面白い。この地の“過去”が、今のリズムと交差しているようだ」
あやのが静かに尋ねる。
「この場所の“記憶”は、建築の素材になりますか?」
教授は一瞬目を伏せ、それから小さく頷いた。
「音楽は過去を裏切らない。だからこそ、こういう場所には“時間の層”が残る。
君たちが拾い上げたそれを、建築に翻訳する。……それができれば、ここは音楽そのものになる」
司郎が頷く。
「この湾岸に、“歩ける楽譜”を作ります。誰が歩いても、違うメロディが聞こえる。
そのとき、風景と人が繋がるんです」
澤井教授は深く頷いた。
「……君たちの世代にしかできないことだよ。私はもう、“響きを読む”ことしかできん。
でも、若い設計者がこうして“響きを描く”姿を見ると、まだ未来があると思える」
梶原が低い声で言った。
「教授。あんたの残した理論がなければ、ここまで来れませんでした」
「ハハ、それを言われると照れるねぇ」
教授は照れ隠しに咳払いし、地面を指さす。
「ここに、ひとつだけ私の“願い”を込めたい。かつて、港湾労働者たちが昼休みに演奏していた──あの“休息の音場”を、再現してくれ」
司郎はすぐにそれをメモし、あやのと視線を交わす。
「わかりました、先生」
「いいね。……君たちの“SoundGarden”、期待しているよ」
そう言って澤井教授はゆっくりと現場を後にした。
風の中、彼の後ろ姿に、あやのはどこか懐かしい響きを感じていた。




