第七十六章 夜を歩く音
東京湾岸、夜。
海の向こうで揺れる灯りと、高架道路の車の音が遠くに聞こえる。
人工照明に照らされた回廊予定地に、仮設のライトと音響機器が並び、夜間実験の準備が進んでいた。
梶原が、三脚に取り付けた測定器のセンサーを調整しながら言う。
「風向きは東南、湿度はやや高い。音の拡散には不利だが、これもデータのうちだな」
あやのは首に薄いストールを巻き、機材に囲まれたスペースから音の発信操作を開始する。
周囲に設置した複数のスピーカーから、構成された音階が流れ出す──
遠くの潮騒と混じるように、静かに、しかし明確に空間を震わせる音。
「静かな音から始めます。共鳴のポイントを探ってください」
司郎は、携帯端末と図面を片手に歩く。耳元には集音マイクと受信機を装着し、実際の反響を聴いている。
「――この辺り、波音との干渉がある。面白い。こっちは無響が過ぎるな、音が沈黙してる」
その言葉に呼応するように、ヘイリーが小さなラテンパーカッションを取り出し、試しにリズムを刻んでみせる。
ぽん、ぽん、と乾いた音が空間に跳ね、やがてふっと消える。
「音が……吸われてるわね。これはこれで面白いけど」
あやのは頷き、別のスピーカーに切り替える。
次の瞬間、あやののハミングが流れた──昨日の実験で録音した、静かな旋律。
風のない夜に、透明な音がしずかに湾岸に満ちる。
「これが“Gardenの始まり”です」あやのが小さく呟いた。
ヘイリーは黙って、そっと録音ボタンを押す。
「これ……残しておきたいわ。いつか、コンサートじゃなく、風景そのものになる音楽よ」
梶原が手元のモニターを見て、低く言った。
「共鳴ポイント、確かにいくつか出てる。人の歩みとともに変わる反応……“生きてる”空間になってきたな」
司郎が最後に歩みを止め、海を背に模型を見返す。
その目は鋭く、そしてどこか感情を帯びている。
「この土地がくれた音を、建築に還す。それができれば──」
ふっと笑う。
「音楽と建築は、ただの融合じゃない。“共鳴”だ」
あやのがその言葉に、そっと頷いた。
静かな夜、波の音にまぎれて、プロジェクトは確かな輪郭を得ていく。




