第七十二章 音の港に潜む記憶
早朝の東京湾岸は、まだ眠りから覚めきらない。冷たい海風が倉庫の間を吹き抜け、波のざわめきが遠くに聞こえる。
あやのは薄手のコートを肩にまとい、足元の砂利を踏みしめながら歩いていた。耳はじっと音の層を探るように澄まされている。潮の匂い、古い木材の湿り気、遠くで軋む鉄橋の音──それらが入り混じり、見えない過去の声を呼び覚ましていた。
「ここに、何かがいる」
あやのの瞳は星のように輝き、無意識のうちに指先が微かに震えた。
ヘイリーは彼女の横で、スマートフォンで音波解析のアプリを操作していた。明るいラテン系の笑顔とは裏腹に、音の変化に鋭敏に反応している。
「音の地図、これで作ってるわ。君の声と合わさると、面白い効果が出るはず」
あやのは軽くうなずき、ポケットから小さなペンダント型の音響センサーを取り出す。これが彼女の“絶対音感”を補助する特別な装置だ。
二人のまわりに、徐々に音の織りなす波紋が見えるようだった。記憶のかけらが風に乗り、過去の音楽や笑い声、時には悲しみの声も混ざる。
「あの頃の音が、まだここに残っている……」
あやのの声は風に溶ける。
「私たちが、ここに新しい命を吹き込む番ね」
ふと背後から、重い足音が響いた。振り返ると、吉田が銀縁眼鏡を直しながら歩いてきた。
「面白い現象だな。これまで見えなかった空気の流れが見えてくるようだ」
彼の目は少し鋭く光っている。
「そうだね。でも、あやのの声がないと始まらない」
ヘイリーが笑った。
吉田は一瞬微笑み、そして口を開く。
「では、君たちの合奏を期待しよう」
日が高くなるにつれて、調査は進んだ。倉庫の奥にある古びたピアノの前で、あやのが静かにハミングを始める。
その声は澄み切った水のように周囲に広がり、まるで音の迷宮に新たな光を射し込むかのようだった。
調査が終わり、夕暮れの港に戻ると、あやのはふと一人で歩みを止めた。
「……これが私の、新しい物語の始まり」
冷たい海風に髪を揺らしながら、彼女は遠くの灯りを見つめていた。




