第七十一章 ヘイリー再来・音の翻訳者たち
成田空港の到着ロビー。夕暮れの空がガラス越しに朱色をにじませていた。
ヘイリー・マカフィーは、いつものように陽気な笑顔で現れた。肩までのカールした黒髪。明るい瞳に、金のフープピアス。ラテンのリズムをそのまま身体に宿しているような、あたたかい存在感だった。
「アヤノ~ッ!トウキョウ、ワタシ、カエッテキター!」
走り寄るヘイリーに、あやのは思わず笑って手を振る。
「Welcome back, Hayley. でも、帰ってきたって……日本初めてでしょ?」
「イイノ!キモチ、ダイジ!」
あやのは、微笑みながら思った。
(この人がいると、風の音すら踊りだす)
その夜、出るビルの応接室で、ヘイリーとメンバーは東京湾岸プロジェクトの概要を共有していた。
「ふむ……“共鳴の回廊”は蔵前で完結したが、こっちは“波と記憶”がテーマか」
と、吉田が資料に目を通す。梶原は黙ってうなずき、すでに地下構造の模型を紙粘土で作り始めていた。
司郎はヘイリーに図面を見せながら説明を続ける。
「風と音がぶつかって、たまに泣くような音がする。あれを“翻訳”するのが君の役目よ、ミズ・ラテン」
「まかせなさ~い!音、泣いてるとき、わたしもよく踊って泣くから!」
「そういうの、科学じゃ説明つかないのよ」と司郎が苦笑しながら言うと、ヘイリーはあやのの方を向いた。
「ねえ、アヤノ……またハミング、してくれる?」
あやのは一瞬、迷ったように視線を落とした。しかし──
「うん。今度は、海の声を聴きたいな」
数日後。東京湾岸の空き地に、あやのとヘイリーは立っていた。
風が潮の匂いを運び、遠くで波がコンクリートに当たる乾いた音を立てる。
その場で、ヘイリーはスカーフを取り出し、目隠しのように自分の額に巻いた。
「オーケー……“音の地図”を描く準備、できたよ」
そしてあやのも、そっと唇を開いた。
──ハミングが、風と混ざった。
それは海鳥の影をなぞるように、湾岸の廃レールをくぐり、古い倉庫の壁を揺らした。金属音。風音。船のエンジン音。残響。記憶。
全ての音が、静かに一つに集まっていく。
「……泣いてる」
ヘイリーが呟いた。
「でも、怒ってない。さびしいだけ」
あやのもまた、目を閉じた。
──この場所は、かつて音を待っていた。
それをやっと思い出したように、建築されようとしている。
「ここに“音の庭”を作ろう」と、あやのは言った。




