第七十章 港の風と耳を澄ませるものたち
東京湾の縁に立つと、あやのの髪が風にそよいだ。空の色は薄い灰。陸と海の境界が曖昧な午後だった。遠くを貨物船がゆっくりと滑っていく。
「ここから始めるのね」
そう呟いたあやのの声は、かすかに震えていた。冷たさではない。期待と、不安と、耳を澄ませることへの緊張。
足元には、かつて倉庫だった敷地が広がる。アスファルトに苔が這い、鉄の匂いがかすかに残っている。貨物用レールの残骸、転がるパレット。過去の産声が消え残っていた。
その背後、仮設のテントの中で、司郎が資料の束を開いていた。
「……この土地、建築法規も厄介だけど、それ以前に“音”が乱れてる」
司郎は筆を走らせながら、独り言のように言った。傍らで、梶原が小さく頷く。
「地下の鉄骨が響きを乱してます。土の中で音が“うねる”んです」
「それ、正確には“渦”になってるの。ハーモニクスの濁り方が、妙に遅延してて──何か棲んでるみたい」
吉田が眼鏡を押し上げながら、タブレットに記録を取っている。彼はあやのたちに遅れて合流したが、音響データの精度は誰よりも鋭い。
一方、あやのは静かにその音を、心で聴いていた。
そのとき──風がふっと変わった。
海からではない。背後の空き倉庫群の奥から、まるで誰かの囁きのような音が忍び込む。
「……来てるわね」
あやのが呟いた。
「音が、集まってくる……きっと、“誰か”も一緒に」
その夜。出るビルの会議室で、メンバーが一堂に会した。
司郎がプロジェクターで映し出すのは、「東京湾岸サウンドガーデン(仮)」の初期コンセプト。
海風と建築構造の共鳴
音の反響を“翻訳”し、可視化する庭園
音楽療法を意識した市民の癒し空間
音と記憶が交差する、風の回廊
「これを実現するには、技術者だけじゃなく“聴く力”のある人材が必要なの」
と、あやのが言うと、司郎が短く補足した。
「だから、連れてくるわよ。“あの人”を」
吉田が驚いたように眉を上げた。
「え?……まさか、またあの霊視の“おばあちゃん”?」
「違うわよ、誰それ。ヘイリーよ」
その名に、あやのの表情がわずかに柔らいだ。