第六十九章 風を聴く場所
東京湾岸の片隅。かつて物流倉庫が並んでいた一角に、今はぽっかりと空き地が広がっている。
鉄筋の土台だけを残して撤去された建物の跡地。アスファルトも割れ、草が勝手気ままに生えている。
海風の通り道だ。
都市の音が、風に混じって吹き抜けていく。車のタイヤ音、船の汽笛、カモメの声、工事現場の金属音。
だがそれらの隙間に、ときおり「あやの」だけに聴こえる音がある。
――くぐもったピアノの音。
あるいは、遠くで誰かが鼻歌を歌っているような声。
あやのはそっと目を閉じて、風の流れを受け止めた。
足元の土が微かに鳴る。「この土地は、まだ音を覚えてる」
「……どうした、あやの。鳥と喋ってるの?」あ
司郎が隣から覗き込む。いつも通りの黒縁眼鏡に作業帽姿だ。
あやのはくすっと笑って、指を空に向けた。
「風がですね、この土地を好きって言ってます」
「アンタほんと便利だね。環境分析、予算ゼロで済むじゃん。地霊リスニング・デバイスって感じ?」
「そういうことじゃないですけど……」
苦笑しながら、風の中に立ち続けるあやの。
その後ろから、銀縁眼鏡の吉田透が無言で音響センサーの三脚を立てていた。
細身の手でタブレットを操作し、微細な音の粒子を視覚化する。
「やはり……ここは、“鳴って”ますね。人工音よりも、土地の記憶の方が強い。昼間なのに。」
「うわ、やめてよ。怖い方向に行くじゃんかそれ。ホラーは出るビルだけで充分よ?」
司郎が身を引く。
吉田は目を伏せたまま、「これは、過去の声です。幽霊じゃない」とぽつりと言った。
「つまり、残響ですね」あやのが口を挟んだ。
「わたしたちが建てようとしてる場所は、記憶が音に宿ってる」
「記憶の音を、どう再生して、どう響かせるか。建築側の課題になるな」司郎が真顔で呟く。
やがて、梶原が重たいケースを引きずりながら現場に合流してきた。
「……地盤、悪くない。けど、砂交じりの層が途中にある。音の通り方、特殊かもしれない」
彼の声も、少しだけ、風に攫われる。
「この空き地に、“耳”を作りましょう」
あやのがつぶやいた。
「耳?」司郎が眉をあげる。
「音を聴く耳です。この街に吹く風も、鳴る記憶も、全部拾って、奏でてくれる……。そんな場所にしたい」
風の中で、草が揺れる。
まるで、その言葉にうなずくように。
――Tokyo Sound Gardenの原点となる「共鳴の耳」が、この日、この地に芽吹いた。




