第七章 山を越える声
風の匂いが変わったのは、ある満月の夜だった。
それまでとは違う音――軽い靴の音、革の軋む音、整いすぎた足音が、山の麓からゆっくりと忍び寄ってきていた。
それは、あやのにとって馴染みのある足音だった。
何よりも、耳に焼きついて、何度も夢に見た気配だった。
甲斐大和。
あやのを「見つける」ことに人生を捧げかねない少年。
その執着は狂気に満ちていたが、あやののすべてを見逃さない、唯一の人間でもあった。
山の気配が、怯えていた。
いつも騒がしいカラスたちが鳴かなくなり、木々のざわめきが消えた。
遠野の霊たちは言葉を持たぬが、あやのはその沈黙から“警告”を受け取った。
逃げなければならない。
それは頭での理解ではなかった。
心が、体が、そう命じていた。
梶原の作った小屋の扉を、あやのは一度だけ振り返った。
湿った風が、髪をやさしく押した。
あやのは、その夜、そっと山を出た。
梶原には告げなかった。
告げれば、彼は探すだろう。
探して、守ろうとするだろう。
それが、あやのには――耐えられなかった。
温もりをくれた人を、巻き込みたくなかった。
最後の夜、あやのは焚き火のそばに小さなメモを残した。
墨で書かれた、たったひとこと。
「ありがとう」
何も足さず、何も引かず、ただその言葉だけを。
月明かりのなか、あやのは人目を避け、再び逃げる者となった。
街道を避け、獣道を辿る。
空腹、冷え、疲労――すべてを背負っても、心だけは決して折れなかった。
遠野の土が、その心の奥に、静かに根を下ろしていたから。
そして、甲斐の気配がすぐ近くまで来ていたことを、あやのは知っていた。
あの少年は、必ず追いつく。
追いついて、こちらの心を試してくる。
逃げても逃げても、見つけ出して、声をかけてくる。
だからあやのは、言葉を用意しなかった。
心に鎧をつけ、誰にも触れられない場所へと、また歩み始めた。
そしてたどり着いたのが、仙台だった。
人の気配が濃く、善意も悪意も入り混じるこの都市。
何もかもが入り乱れ、混沌とした街。
だが――その混沌の中に、
ひときわ強く、純粋な磁力を放つ存在が、確かにいた。
司郎正臣。
理屈と合理、物理と構造を信じる男。
あやのはまだ知らない。
この出会いが、自らの運命を音楽と建築に織りあげていく壮大な旅の、はじまりであることを。