第六十七章 光の通り道
東京の春は一気に濃くなり、花粉を含んだ風が街角をくすぐっていた。
司郎デザインの事務所──通称「出るビル」では、春の陽を浴びながら、誰ともなく掃除をしていた。
あやのはベランダに干されたシーツを取り込みながら、鼻歌のようなメロディを織り上げている。
それは、かつてニューヨークの路上でふいに生まれた旋律だった。
「なあ、そろそろ“次”の音、聴こえてきてないか?」
そう言ったのは、梶原だった。
資格取得の合間に口にした一言が、意外にも場の空気を変えた。
司郎が、鼻の頭をこすりながらうめいた。
「……そうなのよ。正直、あたしもムズムズしてたの。蔵前は確かに“静寂”の完成だった。でもあれは、ひとつの終わり。次は“動き”が欲しいのよ、躍動。音が溢れてくるようなやつ」
「でも先生。音が溢れる建築って……なんですか?」
あやのが首をかしげる。
「決まってないの。でもね、澤井教授が言ってたのよ。“もっと先がある”って。あのじじい、やっぱ何か隠してるわ。あやの、お手紙見た?」
「はい。昨日届いてました。教授の自筆でした」
あやのは、机の上から一通の封書を手に取る。上品な和紙に丁寧な筆致。
澤井教授からの言葉は、こう始まっていた。
拝啓 桜花の候、いかがお過ごしでしょうか。
蔵前ホールの完成、誠に見事でした。あれは音の魂のための建築です。
だが、音楽とは記憶だけではありません。
時にそれは、未来を照らす“光”にもなります。
かつて私が夢見た、ある“都市構想”があります。
音と建築が都市の中で共鳴し、人々の心を開く装置となるような──
“都市の音楽庭園”計画です。
もし、貴殿らがこの道を進む意思があるのなら、一度お話したい。
東京湾岸に、まだ眠る“音の原野”があります。
敬具
澤井新太郎
「東京湾岸……?」
あやのが呟くと、司郎はすぐに食いついた。
「湾岸……あのへん、再開発凍結地帯でしょ? でも逆に、何もないからこそ“音の庭”がつくれるかもしれない」
「また幽霊、いるかな」
梶原が真顔で言うと、あやのがくすっと笑った。
「いたら……一緒に聴きましょう。今度はもっと、にぎやかな音がいいな」
この会話の後、彼らは澤井教授と再会し、
東京湾岸のとある再開発予定地──“静かな空き地”を訪れることになる。
そこは、かつて音楽フェスティバルの跡地だった。
そして、あやのの中にまた新たな“旋律”が芽生え始める。




