第六十五章 静寂の残響と、新たな風
新たに加わった吉田透の存在は、出る事務所に予想以上の風をもたらした。
朝一番のミーティング。梶原が入れてくれた湯気立つコーヒーを片手に、あやのは模型の横に並んだ追加資料に目を通していた。
「……この、反響構造の分析……吉田さんが?」
「うん。あと、共鳴ポイントの予測も。過去の演奏記録と音響測定データを重ねて抽出してたよ」
「マニアね……」と司郎がぽつりと言う。だがその口調に棘はない。
吉田は技術者ではない。だが、建築を空間の「意味」として捉える才にかけては、司郎と異なるベクトルで突出していた。
その午前。澤井教授が現れた。
「久しぶりに“音が生きている”建築を見た気がするよ」と笑いながら、共鳴の回廊の完成模型に目を細めた。
「現地で音の迷宮に迷って以来、私にはずっと残響の亡霊が憑いているような気がしていた。……この模型を見たとき、不意にその亡霊が消えたような気がしたんだ」
「……幽霊、見えるんですか?」あやのが訊ねる。
教授は苦笑する。
「私のような年寄りには、見えるというより、聞こえるんだ。“もういい”って」
吉田が立ち上がり、無言でファイルを教授に差し出した。そこには建築模型だけでなく、回廊の音響共鳴をCG化した映像シミュレーションが添えられていた。
教授は静かにページをめくり、ふと、手を止める。
「“Silent Requiem”か。……名は静かだが、内容は革命的だね」
そして、資料の末尾にある小さなメモに目を落とした。
設計監修:司郎正臣
音響構成・空間解析:吉田透
感覚モデル・意匠統合:真木あやの
「なるほど。まさに“三位一体”か……」教授は静かに呟いた。
その日、澤井教授は模型の前でしばし立ち尽くし、最後に一言、こう言い残した。
「……これを見たら、あのコンサートホールも、きっとまた歌いたくなるよ」
模型の傍で、あやのは小さく微笑んだ。
ピアノ幽霊の姿はもう、どこにもなかった。
その夜。事務所の窓を開け放つと、都会の夜風の向こうから、遠くで響くラッパの音が聞こえてきたような気がした。




