第六十四章 来訪
東京、午後。
雨上がりの光が、ビルのレンガ壁にまだ濡れた匂いを残している。
「司郎デザイン」の扉が、重たい音を立てて開いた。
「……予約は?」
受付机の奥から、梶原が低く問うた。
スーツの襟を立てた男が一人、入ってくる。銀縁眼鏡。無表情。返答は、そっけない。
「してない。時間が空いたから、来ただけ」
梶原は数秒黙ったあと、静かに声をかける。
「あやの──客だ」
ふわりと現れたのは、真木あやのだった。
薄いグレイのシャツ、ほつれかけたエプロン姿。午前中に焼いていたパンの香りが微かに残っている。
「あ……吉田さん?」
「どうも」
軽く会釈を返す吉田。相変わらず、温度の読めない視線。
そこへ、奥の作業室から声が飛ぶ。
「アンタ、来るなら連絡しなさいよ、ったく」
司郎正臣が図面の上から顔を上げた。シャーペンを咥えたまま、眉をひそめる。
「アポなしで設計事務所に来るなんて、営業マンでもやらないわよ」
「営業じゃない。……見に来ただけ」
「何を?」
「“あの空気”を」
吉田は答える。その言い方があやのの目を止めた。
「あの夜の展示会。空間に音が“立っていた”。
……その感覚を、誰がどう作るのか気になって」
司郎は一度だけ笑った。皮肉でも、敵意でもない笑いだった。
「アンタってほんと、変わらないのね」
「そっちも。相変わらず、無駄がなくて、無口な建築を作ってる」
司郎が図面から目を離さずに言う。
「じゃあ何? ウチに興味が出た? 嫌いだったんじゃない、こういうの」
「“こういうの”が、今は面白いと思ってるだけ。……それじゃダメ?」
あやのが、そっと紅茶を差し出した。受け取る手が細い。
「……ありがとうございます」
彼は初めて、目を和らげた。
しばらく、三人の間に静けさが流れる。
梶原は空気を読むように黙って席を外した。
「……じゃあ、なんの用件なの?」
司郎が尋ねる。
「特にない。けど」
吉田はあやのの方を見て言った。
「あなたが何を見て、何を聞いて、何を設計しようとしてるのか──それを知りたい」
「わたしは、まだ何も……」
「でも、始まってる。そういう空気がする」
吉田は紅茶を置いた。
「なにか始めるなら、見ていたい。それだけ」
司郎が、椅子の背にもたれた。
「ふぅん……それ、勧誘されに来た人間の台詞じゃないのよ」
吉田は答えなかった。ただ、静かに立ち上がった。
「また来てもいいですか?」
司郎は目を細めた。
「……好きにすれば。どーせあやのは断れないでしょ」
あやのは笑って、小さく頷いた。
「では、また」
扉が閉まり、レンガの壁に再び静けさが戻る。
「ああいうタイプ、好き?」
司郎がつぶやく。
「いえ。ちょっと、こわいです」
けれど、その“こわさ”の奥にあるものを、あやのは確かに感じていた。
この街に、“音を聴く建築”をつくるなら──
あの静かな執念も、必要かもしれない。




