第六十三章 静寂の輪郭
SOHOの片隅、白い壁に囲まれたギャラリー。
そこには、音よりも深い静けさがあった。
吊り下げられた小さなスピーカー群から、風、水、遠い電車の音などが断片的に流れている。だが、そのすべてが耳の奥に触れるほど繊細だった。
「……なんか、アタシの部屋より静かねぇ」
司郎の小さな声が、空間の温度をわずかに変える。
あやのは、その変化に一瞬耳を傾け、何も言わずに歩を進めた。
壁のひとつに、「都市音と空間記憶」という展示テーマが書かれている。
ヘイリーが、キャラメルをかみながら笑った。
「都市の“音の遺跡”って言い方、いいよね。わたし、音のほうが記憶に残ると思うんだ」
そのとき、照明が落ちた。
小さなステージに登壇したのは、一人の青年だった。
銀縁の眼鏡。灰色のマフラー。無表情に近い顔立ちで、まっすぐにマイクの前へ立つ。
「……誰?」
あやのの問いに、司郎は眼鏡を押し上げて呟いた。
「吉田透。天才だけど、クセ者。アタシとは何度か賞でバッティングしてねぇ……人付き合いは嫌いなタイプ」
「今日のテーマ、“空間に残る音”」
吉田の声は低く、けれど明瞭だった。
「都市には、聞こえない音がある。
解体された劇場の跡地、再開発の途中で取り壊された住宅街。
音が消えても、人は“そこにあった何か”を感じ取ってしまう」
スクリーンに映し出されたのは、かつての駅舎跡。
微かに軋む床の録音が流れ、わずかな音が空間を満たしていく。
「それを私は、“無音の建築”と呼んでいます。
音の消失は、形の消失ではない。音は、空間に対して誠実で、残酷でもある。
だから──沈黙こそが、都市の真の音響かもしれない」
その言葉に、あやのは目を閉じた。
旧・蔵前コンサートホール。着工の数日前、あの場所に満ちていた音の気配。
誰にも届かない記憶のような、あの残響。
講演後、三人はギャラリーの一角で軽く会話を交わした。
「……あれだけの講義、何年ぶりかしら。表に出る気になったの?」
司郎が声をかけると、吉田は淡々と答えた。
「久しぶりに“言語じゃ説明できない何か”に触れたから、ね」
そのとき、吉田の視線があやのに移った。
「ああ。あなたが……」
「彼女は助手よ。名を真木あやの」
司郎の言葉を遮るように、吉田は短く言った。
「さっきの空間で、ひとりだけ“音”に立ってた。
……それが気になっただけ」
あやのは軽く会釈し、言葉を選びながら返した。
「記憶に寄り添う音って、ありますよね。耳ではなくて、体のどこかで聴くような」
「いい表現だ」
吉田は、わずかに目を細めた。
「また、どこかで」
それだけ言って、彼は立ち去った。
「──変わらないわねぇ、あいつ」
司郎が肩をすくめる。
「面倒くさいけど、技術も感覚も一流」
「会えてよかった」
あやのはそう言って、小さく息を吐いた。




