第六十一章 ヘイリーと音の記憶
夕暮れのセントラルパークの端に近い小さなジャズバー。
木造の建物にネオンサイン、扉の隙間からサックスの音が漏れていた。
「この街、音でできてるのよ。人の足音、タクシーのクラクション、ハトの羽ばたき。ほら、耳を澄ませて」
ヘイリー・マカフィーは、あやのの隣を歩きながらそう言った。
黒人音楽の歴史が染み込んだこの街で育った彼女は、言葉以上に音に対して饒舌だった。
「あなたの声は、風の音に似てるわ。吹き抜けて、でも残るの。こう、心に」
あやのは小さく笑った。司郎に止められていたのに、今日は珍しく、あやのは1人でここにいた。
正確には──「尾行に気づいてまいてきた」のである。
「わたし、そんなに特別な声じゃないと思うんです。ハミングなんて、昔からの癖で……」
「癖でも宝よ。だって音は記憶になるじゃない」
ヘイリーはグラスを指で回しながら、やや遠い目をした。
「わたし、小さい頃この街のあるホールで初めてピアノを弾いたの。もう取り壊されちゃったけど……蔵前みたいな場所。ひとりでピアノと向き合って、音が跳ね返ってくるあの感じ、まだ覚えてる」
「音の迷宮……」
「そう、それよ! あなたのあのプレゼンを聞いて、いろんなことが蘇ったの。だから今度のプロジェクト、一緒にやらせて」
あやのは驚いた顔をした。
彼女は音楽家。こちらは建築設計者。分野は違う。でも──音に心を向けているという点では、何か通じるものがあった。
「司郎さんが許してくれるなら……」
「口説くわよ、その坊主の先生。あの人も、音に興味ある顔してた」
ふたりは笑った。
笑いながら、バーの古いピアノの前に座ったヘイリーが、片手で軽く和音を鳴らした。
ラテンリズムに少しジャズの香りをのせて。
あやのは、ふと口を開き、小さくハミングした。
さざなみのような旋律が、薄暗い店内を優しく包んだ。
ピアノと声が交差し、溶け合っていく。
まるで、長い旅の果てにようやく再会したように──
演奏が終わると、バーの奥にいた老マスターが静かに拍手を送った。
「ブラボー。いいね、若いのに……音で会話できる子は、ほんとに珍しいよ」
その夜、あやのとヘイリーのコラボレーションが正式に始まった。




