第六十章 風に溶ける音 ― Street Piano in NY
夕暮れが近づく頃、ハドソン川沿いの公園に、冷たい風が吹き抜けていた。
金色の光が摩天楼をなぞるように落ちていく。
空気は乾いていて、けれど人々の顔はどこか柔らかく、週末の自由な雰囲気が街に満ちていた。
その風景の片隅に――ぽつんと置かれた、ストリートピアノ。
色褪せたペンキがまだらに剥がれ、幾人もの演奏者の指先を覚えているその鍵盤に、
一人の東洋人の少女が、そっと座った。
ふわふわの真珠色の髪を、風が少し揺らす。
真木あやの。
ピアノは、彼女に何も求めてこない。
ただそこにある。
だからこそ、向き合える。
最初は誰も気に留めていなかった。
街角の演奏など、ニューヨークでは日常だ。
だが、音が鳴った瞬間――変わった。
《ぽろろん》
ひとつ目の和音は、何でもないコードだった。
けれど、音が空気に触れたとたん、周囲の時間がゆっくりとした。
まるで、音そのものが“場”をつくる力を持っていた。
彼女はただ、思い出すように鍵盤に指を置いていた。
音階でも、楽譜でもない。
呼吸だった。
吐く息と吸う息の間に、音が生まれていた。
やがてそれは、ハミングへと変わっていく。
「──ん、ふぅ、ん……ふぅぅ……」
誰にも真似できない柔らかな音の粒。
風に乗って流れていき、通りを歩く人々が立ち止まりはじめる。
観光客の老夫婦が微笑み、近所の少年がその場に座り込み、
後方では、スケーターの青年がスマホの録画を始めていた。
ヘイリーは、数メートル離れたカフェの外席でその様子を見つめていた。
「……すごい。
この子、音楽家じゃない。ただの“音そのもの”だわ」
そうつぶやいた唇に、ほのかにラテン訛りが滲む。
ヘイリーは幼いころ、キューバの港で育った。
誰もが踊り、歌い、海風の中で暮らす町だった。
音楽は「教わる」ものではなく、「染みつく」もの。
それを今、目の前でまったく違うやり方で体現している少女がいる。
あやのは、ふと顔を上げた。
風が吹いた先に、視線が吸い寄せられる。
そこに――いつの間にか司郎が立っていた。
ずっと遠くから見守っていたようだ。
彼はいつものように無表情だったが、わずかに肩の力が抜けていた。
何も言わずに、ただ彼女に小さく頷く。
それは「よくやった」の代わりだった。
ピアノの音が止まると、人々は自然と拍手を送った。
だが、あやのは驚いたように顔を上げた。
彼女は、誰かに聴かせるために弾いていたわけではなかったから。
けれど――
「もう一曲、お願いできるか?」
そう声をかけたのは、車椅子に乗った黒人男性だった。
彼の膝には、ヴァイオリンケースがあった。
そしてその隣には、ヘイリーが立っていた。
「紹介するわ。彼、マーカス。ニューヨークで活動してる盲目のヴァイオリニスト」
ヘイリーの目が、いたずらっぽく光る。
「セッション、してみない?」
そして、その瞬間――
あやのの心の中に、何かが生まれた。
「音楽って、伝わるんだ」
日本の山奥で育ち、遠野の森を知り、仙台を旅して、東京で仲間と出会い、
そして今、言葉も国も違うこの街で、“何か”が繋がった。
それはたった一つのハミングから始まった、旅の音だった




