第六章 土の上に眠る日々
その土地は、時間が少し違っていた。
春の雪解け。森に光がさすころ、真木あやのは「ここで生きること」を選んだ。
選んだ、というよりも、ただそうなっただけかもしれない。だが、その「だけ」の中に、長く忘れていた安らぎがあった。
梶原國護は言葉を多く持たなかった。
朝になると薪を割り、木を切り、釘を打つ。
昼になると川の水で顔を洗い、少しだけまどろむ。
夜になると飯を炊き、火を見つめ、眠る。
あやのも、それに倣った。
何も求められなかったから、何かをしたくなった。
食材の切り方を工夫し、温かいスープをつくった。
薪の積み方を考え、小屋の隙間をふさぎ、寒さを和らげた。
時折くる山の住人――天狗のような顔をした農夫、狐面の女の子、言葉を喋らぬ老人――と挨拶を交わした。
梶原は、あやののしたことに決して驚かない。
不思議も、不審も持たない。ただ、「ありがとう」と言わぬ代わりに、翌日には薪を二束多く割った。
そのやり取りが、あやのには心地よかった。
季節は巡る。
春の花が終わるころ、あやのは苗を植えた。
夏の雨が降るころ、梶原が作った雨樋が小屋を守った。
暑い日、あやのは川に足を入れた。白い脚が冷たい水に沈み、光が跳ねた。
その川辺で梶原は釣り糸を垂れた。言葉はない。だが、静けさの中に確かな交わりがあった。
夜、星が降るほどの天を見上げながら、あやのはふと思った。
「自分」というものが、いま、この山の時間に溶けかけている。
ここでは、性も、力も、過去も、名前さえもいらなかった。
ただ、誰かの隣にいて、同じ地面を踏んでいるというだけで、胸の奥が満たされていた。
梶原國護という存在は、大地のようだった。
何も語らず、ただ支えてくれる、厚い重み。黒い短髪に角を隠して、よく見たら整った顔立ちをしている。優しい目。
あやのはその存在に寄りかかることを、ようやく覚えた。
背を預けること、目を閉じること。
そして、眠ること。
本当に安心して眠ることなど、今までなかったのだと気づくほどに。
秋が近づくころ、あやのの髪は少しだけ伸びていた。
梶原は何も言わなかったが、ある日、新しい櫛をそっと置いていた。
それが、どれだけの言葉よりも優しかったか、あやのは知っていた。
――だからこそ。
あの男の子が、山に足を踏み入れたとき、
すべてが終わるのだと、わかっていた。