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星眼の魔女  作者: しろ
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第五十九章 名前のないホール(The Nameless Hall)

開館から一週間。

あらゆる新聞とカルチャー誌が、この新しいホールを取り上げた。


「無名の音響奇跡」

「声なき音楽家と、建築家たちの反乱」

「共鳴する都市」──


公式には「Resonance Hall」として登録されているが、誰もその名で呼ばなかった。


人々はこの場所を、もっと感覚的な呼び方で口にするようになっていた。


──「耳の教会」

──「Silent Dome」

──あるいは、こうも。


「ヘイリーの声」


**


ヘイリーは、少しずつ話すようになっていた。

それは、声帯が回復したというより、彼女の音楽が言葉に届いた結果だった。


「……声は、怖かったの」

あやのにだけ、彼女はある晩そう漏らした。


「一度失ったものを、また持つことが。

 でも、音が空間になってから──もう、ひとりじゃないって思えた」


あやのは、何も言わなかった。

ただ、肩を並べて座っていた。

ふたりの間には、やさしい無音が流れていた。


**


ある日。

あやのは一人でホールに立っていた。


まだ開場前。

朝焼けが、音響ガラスを通して斜めに差し込む。


床に残る、昨夜の演奏の残響。

誰もいないはずの空間に、微かなハミングが揺れる。


あやのの唇が開いた。


──音楽は、誰かの記憶でできている。

──建築は、それを置くための器である。


ふと、誰かが背後に立った気配がした。


振り向くと、司郎が手をポケットに突っ込んで立っていた。


「……もうあんた、ここのスタッフに採用されてるレベルね」


「勝手に掃除してただけです」


「そう。じゃあ正式に言うけど、このホールの音響監修兼アシスタントディレクターに任命するわ。給料は──まあ、考えとく」


「ありがとうございます、司郎さん」


司郎はひとつ頷くと、目を細めてこう言った。


「……で、名前。どうするの?」


**


あやのはしばらく黙っていた。


ホールに音が満ちていく。

誰も演奏していないのに、確かに音がある。

それは、この場所に宿った“人々の記憶”だった。


あやのは、そっと答えた。


「このままでいいです。

 名前のないままで」


司郎は眉を上げたが、すぐにうなずいた。


「いいじゃない。名は無くとも、伝わるものがある」


ふたりは並んでホールを見渡した。


名を持たない空間。

しかし、確かに存在する“音の家”。


都市のざわめきが、その外から微かに聞こえてくる。


やがて、開場の時間がきた。


**


その日以降、人々はこのホールをさまざまな呼び名で語った。

けれど、真木あやのの中では、たった一つの名前が、静かに響き続けていた。


──「ひとを、音に還す場所」


建築でも音楽でもない。

けれど、すべてがそこにあった。


それが、名前のないホールだった。

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