第五十九章 名前のないホール(The Nameless Hall)
開館から一週間。
あらゆる新聞とカルチャー誌が、この新しいホールを取り上げた。
「無名の音響奇跡」
「声なき音楽家と、建築家たちの反乱」
「共鳴する都市」──
公式には「Resonance Hall」として登録されているが、誰もその名で呼ばなかった。
人々はこの場所を、もっと感覚的な呼び方で口にするようになっていた。
──「耳の教会」
──「Silent Dome」
──あるいは、こうも。
「ヘイリーの声」
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ヘイリーは、少しずつ話すようになっていた。
それは、声帯が回復したというより、彼女の音楽が言葉に届いた結果だった。
「……声は、怖かったの」
あやのにだけ、彼女はある晩そう漏らした。
「一度失ったものを、また持つことが。
でも、音が空間になってから──もう、ひとりじゃないって思えた」
あやのは、何も言わなかった。
ただ、肩を並べて座っていた。
ふたりの間には、やさしい無音が流れていた。
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ある日。
あやのは一人でホールに立っていた。
まだ開場前。
朝焼けが、音響ガラスを通して斜めに差し込む。
床に残る、昨夜の演奏の残響。
誰もいないはずの空間に、微かなハミングが揺れる。
あやのの唇が開いた。
──音楽は、誰かの記憶でできている。
──建築は、それを置くための器である。
ふと、誰かが背後に立った気配がした。
振り向くと、司郎が手をポケットに突っ込んで立っていた。
「……もうあんた、ここのスタッフに採用されてるレベルね」
「勝手に掃除してただけです」
「そう。じゃあ正式に言うけど、このホールの音響監修兼アシスタントディレクターに任命するわ。給料は──まあ、考えとく」
「ありがとうございます、司郎さん」
司郎はひとつ頷くと、目を細めてこう言った。
「……で、名前。どうするの?」
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あやのはしばらく黙っていた。
ホールに音が満ちていく。
誰も演奏していないのに、確かに音がある。
それは、この場所に宿った“人々の記憶”だった。
あやのは、そっと答えた。
「このままでいいです。
名前のないままで」
司郎は眉を上げたが、すぐにうなずいた。
「いいじゃない。名は無くとも、伝わるものがある」
ふたりは並んでホールを見渡した。
名を持たない空間。
しかし、確かに存在する“音の家”。
都市のざわめきが、その外から微かに聞こえてくる。
やがて、開場の時間がきた。
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その日以降、人々はこのホールをさまざまな呼び名で語った。
けれど、真木あやのの中では、たった一つの名前が、静かに響き続けていた。
──「ひとを、音に還す場所」
建築でも音楽でもない。
けれど、すべてがそこにあった。
それが、名前のないホールだった。




