第五十八章 開館の日(The Day of First Sound)
オープニングセレモニーの朝。
ニューヨークの空は曇天だったが、湿った空気に満ちた街路を抜けて、多くの人々がホールに集まりはじめていた。
建物にはまだ正式な名称がなかった。
仮称は「Resonance Hall」。
しかし、誰もがこの場所を、“音が宿る空間”として認識し始めていた。
エントランスに立つあやのは、胸元に軽い震えを感じていた。
ヘイリーのピアノ。
司郎の建築。
ラウルが設計した可変式座席機構。
そして、自分のハミング。
それらすべてが今、ひとつの音楽として鳴り始めようとしている。
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控室では、司郎がネクタイを結ぼうとして悪戦苦闘していた。
「ちょっと、これどうやって回すのよ……」
「……司郎さん、貸してください」
あやのがさっと手を伸ばし、見慣れた手つきでネクタイを結ぶ。
その仕草に、司郎はふっと鼻を鳴らした。
「慣れたもんねぇ。こりゃ“嫁”にするなら完璧だわ」
「……お世話係ですから」
「違いない」
ふたりの間に笑いがこぼれたちょうどそのとき、ドアがノックされた。
現れたのは、細身のスーツを着た中年男性。
ニューヨーク市の文化振興局の担当官──だが、彼の後ろには、見覚えのない人物がいた。
白髪交じりの長身、柔らかな仕立てのジャケット。
その男は、歩み寄って静かに名乗った。
「ヘンリー・アンダース。音響彫刻家です。
……ヘイリーのかつての“師”でした」
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セレモニーの30分前。
あやのとヘンリーは、観客席の最後列で言葉を交わしていた。
「……彼女は、あなたのことを語りませんでした」
「声を失ってから、私との関係も終わった。
いや、終わらせたのは私かもしれません。
“音楽に限界がある”と言ったんです。あれは……愚かだった」
あやのは、静かにヘンリーを見つめた。
「彼女は、まだ音を信じています。
たとえ話せなくても、彼女の音楽には言葉があります。
──だから、今日ここに来てくださったこと、きっと喜びます」
ヘンリーはうなずいた。
「それを、確かめに来ました。
音が──このホールに宿るのかを」
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そして、セレモニーが始まる。
初めの一音は、あやののハミングだった。
広大な空間に、ごく小さな音が満ちていく。
客席の誰もが息を止める。
音が、天井の反射板に触れ、壁を這い、床に落ちて反響する。
そこに、ヘイリーのピアノが重なった。
沈黙すれすれの弱音。
誰にも模倣できない、彼女だけの強さ。
司郎の設計した“可変壁”が呼応し、まるでホールが一緒に呼吸しているかのようだった。
都市の音、観客の咳払い、遠くのクラクション。
それらすらも、ひとつの“演奏”に溶け込んでいく。
音は、建築と融合した。
その瞬間、ヘイリーのピアノがふと止まり、
代わりに──彼女の口から、小さな声がこぼれた。
「……ありがとう」
客席に驚きのざわめきが走る。
司会者が何か言おうとしたそのとき、司郎がマイクを奪った。
「静かにしなさいッ。……これが、本物よ」
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ヘンリーは泣いていた。
隣であやのがそっと彼に手を添えたとき、彼は微かに笑った。
「彼女の“声”は……音じゃなく、空間だったんですね」
「はい。でも、音もまだ、ここにあります」
演奏は、終わらない。
ホールが、まだ話し続けていた。




