表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星眼の魔女  作者: しろ
58/508

第五十八章 開館の日(The Day of First Sound)

オープニングセレモニーの朝。

ニューヨークの空は曇天だったが、湿った空気に満ちた街路を抜けて、多くの人々がホールに集まりはじめていた。


建物にはまだ正式な名称がなかった。

仮称は「Resonance Hall」。

しかし、誰もがこの場所を、“音が宿る空間”として認識し始めていた。


エントランスに立つあやのは、胸元に軽い震えを感じていた。


ヘイリーのピアノ。

司郎の建築。

ラウルが設計した可変式座席機構。


そして、自分のハミング。

それらすべてが今、ひとつの音楽として鳴り始めようとしている。


**


控室では、司郎がネクタイを結ぼうとして悪戦苦闘していた。


「ちょっと、これどうやって回すのよ……」


「……司郎さん、貸してください」


あやのがさっと手を伸ばし、見慣れた手つきでネクタイを結ぶ。

その仕草に、司郎はふっと鼻を鳴らした。


「慣れたもんねぇ。こりゃ“嫁”にするなら完璧だわ」


「……お世話係ですから」


「違いない」


ふたりの間に笑いがこぼれたちょうどそのとき、ドアがノックされた。


現れたのは、細身のスーツを着た中年男性。

ニューヨーク市の文化振興局の担当官──だが、彼の後ろには、見覚えのない人物がいた。


白髪交じりの長身、柔らかな仕立てのジャケット。

その男は、歩み寄って静かに名乗った。


「ヘンリー・アンダース。音響彫刻家です。

 ……ヘイリーのかつての“師”でした」


**


セレモニーの30分前。

あやのとヘンリーは、観客席の最後列で言葉を交わしていた。


「……彼女は、あなたのことを語りませんでした」


「声を失ってから、私との関係も終わった。

 いや、終わらせたのは私かもしれません。

 “音楽に限界がある”と言ったんです。あれは……愚かだった」


あやのは、静かにヘンリーを見つめた。


「彼女は、まだ音を信じています。

 たとえ話せなくても、彼女の音楽には言葉があります。

 ──だから、今日ここに来てくださったこと、きっと喜びます」


ヘンリーはうなずいた。


「それを、確かめに来ました。

 音が──このホールに宿るのかを」


**


そして、セレモニーが始まる。


初めの一音は、あやののハミングだった。


広大な空間に、ごく小さな音が満ちていく。

客席の誰もが息を止める。

音が、天井の反射板に触れ、壁を這い、床に落ちて反響する。


そこに、ヘイリーのピアノが重なった。


沈黙すれすれの弱音。

誰にも模倣できない、彼女だけの強さ。

司郎の設計した“可変壁”が呼応し、まるでホールが一緒に呼吸しているかのようだった。


都市の音、観客の咳払い、遠くのクラクション。

それらすらも、ひとつの“演奏”に溶け込んでいく。


音は、建築と融合した。


その瞬間、ヘイリーのピアノがふと止まり、

代わりに──彼女の口から、小さな声がこぼれた。


「……ありがとう」


客席に驚きのざわめきが走る。

司会者が何か言おうとしたそのとき、司郎がマイクを奪った。


「静かにしなさいッ。……これが、本物よ」


**


ヘンリーは泣いていた。

隣であやのがそっと彼に手を添えたとき、彼は微かに笑った。


「彼女の“声”は……音じゃなく、空間だったんですね」


「はい。でも、音もまだ、ここにあります」


演奏は、終わらない。


ホールが、まだ話し続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ