第五十七章 音が止まるとき
ホールの外観がついに姿を現した。
曲線のファサード、半透明の音響壁、そして風を受けて微かに揺れる天井の反射フレーム。
まだ工事は残っていたが、その異様な美しさに、すでに人が集まり始めていた。
「まるで、都市に現れた“楽器”みたいですね」
あやのがつぶやくと、司郎は肩をすくめた。
「そのつもりよ。
でも、これはまだ“未調律”。音が鳴らない楽器は、ただの箱なのよ」
彼の視線は、敷地の隅に止まっていた。
そこには、ニューヨーク市の役人が複数、スーツ姿で書類を手にして立っていた。
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「──都市再生特区との調整が必要になります」
「ええ、知ってる。でもホールの用途変更なんて、今さら?」
司郎の声には、怒りがにじんでいた。
「ホールを“イベント複合施設”に指定し直してほしいとの要請です。住民対話の中で、持続的な収益構造を確保するため──」
「音楽は利益じゃないわよ」
「けれど、利益“も”必要です。都市では」
静かに割って入ったのは、担当キュレーターのカーラだった。
彼女は、最初にこのプロジェクトを市に紹介した人物でもある。
「私も、音楽だけで建てたい。でも、市民参加型という建前の中で、あらゆる声に“場所”を渡すには、このホールを“公共資産”として扱わなければならないのよ」
司郎は何も言わず、指先でメガネを押し上げた。
あやのはそっと司郎の後ろに立ち、手元の設計図を見つめた。
その図面の上で、まるで目には見えない音のように、何かが微かに揺れていた。
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数日後、仮設オフィスで緊急ミーティングが開かれた。
ラウルも、ヘイリーも、関係者全員が集まる中で、あやのは小さな声で提案を出した。
「……都市の声を“受け入れる”構造にしてみませんか」
「は?」
「音楽ホールが、イベント会場になることを拒むんじゃなくて……それごと設計に組み込んで、“変容するホール”にするんです。
都市のノイズを“入れる”ことで、音楽の純度が上がる構造を」
司郎は黙っていた。
やがて、ぽつりと呟くように言った。
「──つまり、“雑音”まで含めて、音楽にするってこと?」
「はい。街の声も、足音も、無音も、全部です」
ラウルが目を細めた。
「……やれるのか、それ?」
「できます。設計、やり直します。少しだけ。三日ください」
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ヘイリーは何も言わなかったが、その夜遅く、あやのにそっと言った。
「……ありがとう」
「なにが、ですか?」
「音楽を、守ってくれて。
でも同時に、それを“閉じ込めなかった”こと」
あやのは、少しだけ微笑んだ。
「司郎さんに教わりました。建築って、ただ“形”をつくるんじゃない。“通す”ものなんです」
「通す?」
「光とか、風とか、足音とか、…祈りも」
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そして三日後。
設計は更新された。
可変式の音響壁。天井のスリットには、センサーで風速と人流を感知するシステム。
ホール全体が都市と呼吸し、「音楽」と「生活」の境界が、限りなく融解する構造。
司郎はその設計図を見て、ひとことだけ言った。
「……悪くないわよ、音楽バカ」
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完成は、目前だった。
だがその夜、最後の調整をしていた現場で、小さな事故が起こる。
一枚の反射板が、高所から落ちた。
誰も怪我はしなかった。
けれど、その衝撃音が──あまりにも美しかった。
「……あれ、使いましょう」
ヘイリーが、静かに言った。
「え?」
「その“偶然の音”ごと、このホールに組み込むの。
この街が生んだ“事故の音”。誰にも再現できない、唯一の音」
あやのは、深く頷いた。
「はい。きっと、それが──このホールの“最初の音”です」