第五十六章 鳴らない音の設計図(Blueprint of Silent Sound)
工事は始まった。
かつて港湾倉庫だった一帯を囲うように、金網と足場が立ち、重機が地を鳴らす。
鉄とコンクリートと埃のにおい。
ニューヨークの「現在」を象徴する喧騒の中で、静かに、音楽のための建築が産声をあげた。
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司郎の設計室は、現地に併設された仮設オフィス。
粗末なテーブルに、緻密な図面と無数の赤い修正線が散らばっている。
「風向き、変わったわね。昨日と反対から吹いてる。音響板、もうちょっと遊ばせて良いわ」
そう言って線を引く司郎の横で、あやのは黙ってピアノ線をいじっている。
ホール内部に張り巡らせる予定の共振装置のモデルだ。
「……高音が飛びすぎる。反射板を低めに再配置します」
「OK、建築とケンカしないでよね。こっちだって必死なんだから」
ふたりのやりとりはまるで、設計と調律のデュエットだった。
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ヘイリーは、どこか別のテンポで動いていた。
ある朝、彼女は現場の誰にも告げず、路地裏のジャズバーへ姿を消した。
あやのが見つけたのは、古びたアップライトピアノの前で、誰とも話さず一音だけを繰り返すヘイリーだった。
「……探しました」
「うん。ちょっと、音を忘れた気がして」
ヘイリーは笑っていたが、その目は疲れていた。
彼女は、喉をかばって言葉を控えていたが、今は口を開いて話すことが増えていた。
「ここに来たとき、最初の数ヶ月は音楽がただの“痛み”だったの。
治療中で、喉も壊れて、聴くことすら怖かった」
「今は?」
「まだちょっと怖い。
でも、あの子──あやの、あなたと音を合わせるときだけ、音が“嬉しそうに”するのよ。不思議なことに」
あやのは小さく笑った。
「ヘイリーさんの音が、きれいだからです」
「じゃあ、きれいにしましょう。この建物の中身、ぜんぶ」
彼女はピアノを閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
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数日後、最初の内部構造が立ち上がる。
天井の高さ、壁の材質、床材に至るまで、徹底的に「響き」が試された。
梶原が現場で怒鳴る。
「だから、断熱材にその発泡スチロール使うなって言ってんだろ! 音が死ぬ!」
「でも、予算が……!」
「予算より、命だろ音の!」
どこか言い方は乱暴でも、彼は本気だった。
素材の選定、角度、空気の逃げ道──建築と音が衝突するたび、チームは会議を重ねた。
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そしてある夜。
建物の“核”となる中央の音響回廊に、あやのとヘイリーが並んで立った。
「……ここが、音のはじまる場所」
「ねえ、あやの。わたしたち、何を建ててるんだと思う?」
「音が住める場所です」
「もっと正確に言うと?」
あやのは少し黙ってから、答えた。
「音の、記憶を保存する建築。
来た人の声とか、歩く音とか、咳払いすら──全部、ここに“残る”。
その“残響”を、未来の誰かが聴いて、また歌をつくるような」
ヘイリーがふっと目を細めた。
「……それって、祈りみたいね」
「はい。これは、祈りのホールです」
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外ではまた、風が鳴っていた。
遠くの高架橋を列車が通る音が、天井の音響版に届き、ふたりの頭上で小さく響いた。
音は、消えなかった。
ほんのわずかに、構造体の奥で、誰かの気配のように残っていた。
それはまるで──まだ誰もいないはずのコンサートホールで、最初の音が鳴る直前の、あの“静寂”のように。




