第五十五章 ノイズの楽譜(The Score of Noise)
マンハッタン南端。旧港湾地区の再開発エリア。
そこは工事の音、トラックのエンジン、海風、そして遠くのクラクションが混じる──言うなれば**「都市のノイズ交響曲」**の中心だった。
あやのは、耳を澄ませた。
「……すごい。無数のリズムがある」
ヘイリーがうなずく。
「街って、“耳”を澄ませると、まるで楽器よね」
そこに司郎が現れた。現場用のゴツいブーツに、図面が入った筒を肩に担いで。
「さーて、天才コンビ。ここから先は“泥と鉄骨の時間”よ。覚悟して」
ラウルは作業服のまま既に周囲をぐるぐる見て回っていた。
「土地の傾き、風の通り道、ぜんぶクセ強ぇな……」
「クセのある音は、調律できる」
あやのがポツリと言うと、司郎が笑った。
「その調律ってやつ、どうやるの?」
「建築を音に合わせてゆがめます」
司郎が立ち止まった。
「……何それ、建築を音の下に置くってこと?」
「はい。“音が通りたがっている”形にしてあげれば、自然と揃ってきます」
しばし沈黙。
だが次の瞬間、司郎はにやりと笑った。
「いいわ。やってみなさい。“建築が音楽に従う”なんて、建築家が聞いたら泡吹いて倒れるわよ」
「泡吹いても起きると思います。耳が良ければ」
──音楽が、構造を変える。
その発想は、建築の論理では“異端”だった。
だが司郎は、異端こそ美しいと知っていた。
⸻
数日後、仮設コンテナで行われたプレゼンテーション。
市の再開発チームや、音響工学の専門家、アートディレクターたちが揃う中、ヘイリーが静かにピアノの一音を鳴らした。
D音。
それを起点に、あやののハミング、そしてラウルのギターが重なっていく。
そして音が止んだ瞬間、司郎が図面を広げた。
「私たちが提案するのは、“演奏される建築”です。
この建物は、都市の音──騒音、風、振動──を取り込んで、内部に響かせる“共鳴体”になります」
一人の審査員が眉をひそめた。
「つまり、ノイズを“残す”んですか?」
「残すどころか、演出します」
ヘイリーが答えた。少しハスキーだが、凛とした声だった。
「この街は音でできてる。その音を遮るより、共に響かせた方が、ずっと都市らしい」
会場がざわめく。賛否が分かれた空気。
だが次の瞬間──
あやのが、持っていた透明な球体をそっと床に置いた。
中に仕込まれたマイクと振動板が、部屋のノイズを拾い、天井から吊り下げた薄い響板に転送する。
──カン、カン……
何の変哲もないドアの開閉音が、まるでハンドベルのように変化して空間に漂った。
ざわめきが止まる。
そして、あやのが言った。
「音は、消さなくていいんです。意味を変えればいいだけですから」
──それが、彼女の設計思想だった。
⸻
数時間後、プレゼンの評価が届く。
「……通ったって」
司郎がスマホを片手に、あやのに報告した。
「え、えっ!?」
ラウルが立ち上がる。
「正式採択。追加予算も確定。音響ホールの中核施設として、“ノイズレゾナンス計画”のパイロットに選出されたわ」
「つまり……」
ヘイリーがゆっくり確認する。
「建てられるってこと?」
「ええ。ニューヨークに、“音が聴こえる建物”を作るのよ。あたしたちが。」
司郎がそう言った瞬間、全員が静かに顔を見合わせ、次の言葉がなかった。
都市に、音の拠点をつくる。
誰かの演奏ではなく、すべての音を抱きしめる構造体。
この街に、それが必要とされたという事実。
あやのはゆっくりとスケッチブックを閉じた。
「……では、建てましょう」




