第五十三章 共鳴の座標(Coordinates of Resonance)
あの日のスタジオに流れていた音は、たしかに「人の声」に似ていた。
けれど、それはただの声ではなかった。
呼吸と音が混ざり、空気の粒子が震えていた。
それが──ヘイリーの声だった。
彼女は、最初の一言を、まるで楽譜をめくるように発した。
「……ありがとう、アヤノ」
その声は思っていたより柔らかく、やや低めで、静かな自信があった。
あやのは驚きもせず、ただ、うなずいた。
「音よりも、言葉のほうが難しいですね」
あやのの言葉に、ヘイリーは笑った。
「でも、音と同じでしょ。沈黙のあとに生まれるものだから」
ラウルはギターを調律しながら言った。
「なんだ、喋れるじゃん。俺の出番なくなるな」
「まだ、半分だけよ」
ヘイリーは、言葉の代わりにピアノの一音を弾いた。
高くも低くもないD音。
それはまるで、彼女の“存在の中央”を示す音のようだった。
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その日、彼らは「共鳴点」の設計を始めた。
都市の音、風の通り道、人の流れ──すべての振動が一点で交わるような構造体。
あやのは、透明なフィルムに円を描いた。
「これは、音が“帰ってくる場所”です」
彼女の言う共鳴点は、中心でありながら空白でもある。
「このホールには“中心に演者がいない”構造を使いたい」
彼女が指し示した図には、ステージがなかった。
「観客の音も、通りすがる人の足音も、建物の一部にします。だから、中心は“誰でもない”ほうがいい」
ヘイリーが息を呑んだ。
「……それは、ちょっと祈りに似てるね」
司郎はホワイトボードに線を引きながら、あやのを見た。
「つまり、あんたは“空間を楽器にしたい”ってわけね」
「はい。でも、楽器というより、共鳴器です。音が生きて、重なって、誰かを揺らすもの」
司郎は腕を組んで天井を見上げた。
「…いいわね。あたしが作ってやる、ちゃんと。これはきっと…“住める音楽”だわ」
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夕暮れ。
街の音が低く沈み、スタジオには穏やかな静寂が戻る。
あやのが静かにハミングを始めた。
それにピアノが重なり、ギターが絡み、やがて何の打ち合わせもなく、ひとつの曲が生まれていった。
それはまだ名もない旋律だったが、確かに「何かの始まり」の音だった。
ヘイリーが、ふっと息を吐いて言った。
「……しゃべるより、ずっと楽だと思ってた。でも、言葉って悪くないね」
「それ、録音しとけばよかった」
ラウルが笑いながらつぶやいた。
「……しなくていいです。覚えておきますから」
あやのが答えた。少し、照れくさそうに。