第五十二章 記憶の音階(Scale of Memory)
朝の光が差し込むスタジオ。
ガラス越しに見るニューヨークの街は、まだ少し眠たげだった。
ラウル・マカフィーは、ギターを背負ったまま、無言で部屋の隅に立っていた。
あやのは既に作業に入っており、ヘイリーはピアノの蓋を開け、ゆっくりと調律音を探っていた。
「どこから始めればいい?」
ラウルがあやのに聞く。
「“消えかけた記憶”を音にしてください」
あやのは迷いなく言った。まるで最初から、彼にその役を頼むつもりだったかのように。
ラウルはギターをケースから取り出すと、弦をひとつひとつ確かめ、指を置いた。
最初の音はとても弱く、曖昧だった。
けれど、そこには確かに、どこか懐かしい「手触り」があった。
まるで…
失くした何かを、音でなぞるような。
⸻
スタジオの中心に置かれた音響解析システムが、ラウルのギターの音を取り込み、即座に振動データへと変換していく。
司郎が、その波形を見て目を細めた。
「妙ね。普通ならこの周波数は反響しないはずなんだけど……」
「過去の建築物で使われてた石材の“密度パターン”と、共鳴してる可能性がある」
あやのが静かに言った。
「まるで、“記憶そのもの”が、音に引き出されているような…そんな感じです」
ヘイリーがうなずいた。
彼女のピアノが応える。
C♯からEへ、そしてDへ降りていく旋律。
あやのは天井に吊るした音響板に、小さなガラス球を配置した。
音が触れるたび、色が変わる設計。今、そこに、淡い金色が灯った。
それは、誰かが大切にしていた記憶の色だった。
⸻
休憩中。
スタジオの片隅で、あやのはラウルに問いかけた。
「ヘイリーさんは、ずっと声を使っていないんですね」
「幼い頃に喉を怪我したんだ。事故だった。声は出せるようになったけど、もう使わないって決めたらしい。代わりに“音”で全部話すって。あの人らしいよね」
「……はい。すごく、音が澄んでました。音の奥に“人の形”が見える感じでした」
「君の音も、ちょっと似てる」
ラウルは不意にそう言った。
あやのは驚いたように顔を上げる。
だが彼は微笑むだけで、それ以上は言わなかった。
「僕ね。音楽で都市を変えられるなんて、今まで信じてなかった。でも、いまは違う。
あの空間が完成すれば、誰かの“記憶”が、建築としてこの街に残せると思う」
「それが、“音のホール”の意味です」
あやのは、小さく頷いた。




