第五十一章 音の骨格(Sonic Skeleton)
グランド・セントラル駅から北東へ少し離れた一角。
元は廃工場だった鉄骨むき出しの空間が、いまは仮設スタジオとして稼働している。
ここが、プロジェクトの“実験室”。
ヘイリー・マカフィーはすでにピアノの前に座っていた。
あやのが扉を開けると、彼女は軽く手を挙げて微笑む。今日も、声は発せられない。でも、それはまるで不便ではなかった。
ふたりのやりとりは、音と視線、そして指先だけで成立していた。
あやのはヘイリーの横に腰を下ろすと、ノートを開き、今日のテーマを確認する。
「建築構造と音の“骨”をどう組むか」
ニューヨーク市から正式にプロジェクト採択の連絡が来たのは、ちょうど三日前。
今は、“音と共鳴する構造体”を、具体的に図面に起こす作業に入っている。
回廊を中心に構成されるホールは、音の動線と人の動線が重なる設計。
誰かが歩けばその振動が天井へ、壁へ、床へと広がり、空間全体がひとつの楽器のように鳴る。
だが、それには**「音の骨格」**となる支点構造が必要だった。
「……この角度だと、低音が潰れる」
あやのは、耳を澄ませながら模型の接合部をいじる。小さなピエゾスピーカーが床の中に仕込まれ、それを拾って天井のパネルに反響させる仕組み。
ヘイリーが即興の和音を叩く。
CからG、そしてAへ滑るようなトーン──
それを受けて、あやのがハミングで乗せる。音が天井で跳ね、三つの異なる位置に波紋を描く。
「……ここです」
あやのがスケッチに書き込む。**“共鳴節”**と名付けた支点ポイント。空間の「音の骨」となる場所が、ひとつ、確かに見つかった。
司郎が、遅れて入ってきた。
「相変わらず、理屈は全部すっ飛ばして直感でやるのね、あんたたち」
そう言いながら、彼は自作の三次元CADに向かい、二人の設計スケッチを取り込む。
あやのとヘイリーは、すでに次の音に取りかかっていた。
建築図面が広がり、音響曲線が交差する。
人が歩く、歌う、咳をする、そのすべてが「音の入力」になり、建築の内側を震わせる設計。
誰かの存在が、そのまま建築を鳴らす仕組み。
それは、ひとつの問いでもあった。
「音は、誰かの存在を残せるか?」
あやのはふと思う。
彼女の記憶の底には、いつも──
かすかに風のような、誰かのハミングがあった。
とても古く、けれど優しく、胸の奥で響いていた旋律。
それはずっと「名前のない音」として、彼女の中に棲みついていた。
いま、それが、少しずつかたちを持ちはじめていた。
⸻
翌日。
グランド・セントラル構内のカフェ。司郎が新聞を読みながらブツブツ言っていた。
「……今日の株価なんて知らないわよ、あたし建築屋よ?」
あやのは、隣でクロワッサンを口に運びながら、ふと気配を感じて顔を上げた。
そこに立っていたのは──
長身で、ラテン系の風貌を持った若い男。黒いタートルに濃い眉。ギターケースを背負っていた。
「……ヘイリーの弟さんですか?」
男は、驚いたように笑った。
「僕の名前、知ってるんだ。ラウル・マカフィー。姉がお世話になってる」
あやのは軽く会釈した。司郎は無言で席を詰め、コーヒーをすすった。
「姉が言ってたんだ。『あの子の音は、かつて聴いたどの声よりも静かで、強い』って。……よかったら、君の“骨の設計”を、音楽家の視点から一緒に見てみたい」
ラウルの目は、あやのの目を、真正面から見つめていた。
その目に、何かが揺れた。
静かに、あやのはうなずいた。
「……“骨”を見てください。音の、私たちの、そしてこの街の」




