第五十章 Sonic Nexus – 音が語る場所
市庁舎前、グリニッジ・ストリートの舗道に立ち並ぶ群青のスーツたち。
再開発計画のプレゼン日。外は初夏の日差しがじりつくように照りつけていたが、会場の空気は逆に、冷えすぎた冷房と緊張感で張り詰めていた。
都市計画局、文化局、経済開発公社、それに民間のアートNPOと投資ファンド。
二十数名の審査員が着席する前で、順番に登壇していく建築家たち。
光るグラフ、建設予算、収容人数、収益予測。
どれも必要な要素だ。だが、あやのの心には、何かが足りないような気がしていた。
そして──「司郎デザイン」の順番が来た。
壇上に立った司郎正臣は、相変わらずの坊主頭に黒縁眼鏡。白シャツの袖をラフにまくり、ゆっくりと資料を広げた。
「……うちは、データ出しても意味ないと思ってるの。どこも似たようなもんよ、建材も数値も。でもね、これはたぶん、うちにしかできないわ」
司郎が合図を送ると、照明が落ち、ホールの中央に音の流れを描いた模型がライトアップされた。
波打つような回廊。天井に取り付けられたレイヤー状の音響板。
その一つひとつに、センサーとピエゾ素子が仕込まれていて──
「足音」や「声」や「ハミング」が、空間と共鳴し合うよう設計されている。
だがそれだけではなかった。
「音は記憶と結びつくの。香りと同じくらい強くね。うちがやりたいのは、“記憶を響かせる空間”なの」
静寂の中、あやのが一歩、前に出た。
マイクは使わなかった。
ただ、ホール中央に設置された反響スピーカーに向かって、ひとつ息を吸い、そっと──ハミングを奏でた。
始まりは、かすかに、ひとつの音。
まるで「おはよう」と言うような、やさしい音の粒。
それが天井を伝って回廊を走り、会場の壁に沿って、まるで生きているように響きはじめる。
音が流れ、戻ってきて、別の音と重なり合う。
重ねるうちに、ハミングは小さな旋律になり、やがて──
「この空間は、あなたの音も含めて完成します」と語りかけるような、ふしぎな説得力を持ちはじめた。
誰もが、息を止めて聴いていた。
ある者は腕を組み、ある者は手を口元に当て、目を伏せていた。
数分のパフォーマンスが終わったとき、審査員たちは言葉を失っていた。
資料よりも、設計図よりも、「音」そのものが建築を説明していた。
──司郎が口を開いた。
「こういうのってさ、数字じゃ測れないのよ。だけどね、人の心には、確かに届くの。あたしたちが提案するのは、“響きが残る建築”。記録じゃなくて、記憶に残るホールよ」
静かに、拍手が起こった。
一人、二人、三人……その音もまた、空間に吸い込まれていく。
⸻
その日の午後、プロジェクトのキュレーターであるジェラルド・ニクソンが、控室に現れた。
「コンペはあと数日で結論が出るが……個人的には、あなたたちに頼みたい」
司郎は肩をすくめた。
「いいの? あたし、電子レンジとも喧嘩するタイプよ?」
ジェラルドは、笑わなかった。
「いいや。あの空間がニューヨークに必要だと、私は本気で思っている。……それに、あの少女の音は、本物だった」
あやのは何も言わなかった。ただ、静かにうなずいた。
音は、言葉を越える。
言葉にならないものを伝える。
彼女が抱える“何か”──決して表に出ない過去や使命すら、今はただこの**「音」**に変えて伝える。
彼女の中で何かが、少しずつ、変わり始めていた。




