小章:「酔いの名を借りて」
司郎との盃を終えた梶原は、自室のランプを灯したまま、静かにカーテンを開け、月を見上げていた。
そこへ、そっと戸を叩く音。
「あの……まだ、起きてる?」
振り返ると、そこにはあやの。
ゆるくほどいた真珠色の髪が肩をなぞり、指先にはまだ、わずかに夜の余韻が残っている。
「司郎さん、酔っ払って寝ちゃったよ。梶くんも……だいぶ飲んだみたいね?」
苦笑する彼女の声に、梶原は一歩近づいて、
ただ無言で見つめた。
その目元は、どこか潤んで赤い。
泣いたような、泣いていないような、
静かに溶けていく深夜の色をまとっていた。
あやのの、星の瞳にも微かに滲む光。
ふたりの間に、誰の声も挟まれない。
司郎と交わした時間のあと、なおも自分の元を訪れたこの人の気配に、梶原の胸は、じん、と音を立てる。
「……あの父娘に割って入ることなんて、できやしない」
梶原はぽつりと、どこか哀しげに笑った。
「もし、お前たちが男と女の間柄だったら──俺なんか、太刀打ちできない。そう思ったよ。……思い知った。あれが、家族ってやつなんだな」
酔いのせいにしても届かない、本音の言葉。
あやのの目に、瞬間、切なさが浮かんだ。
「……馬鹿なこと、言わないの」
あやのは小さく言った。
「私は、何度だって──あなたを選ぶわ。強くて、誰よりも優しい。……ちょっとだけ、嫉妬深いあなたを」
その声は震えて、けれど笑っていた。
そして──
誓うように、あやのは彼に口づけを落とした。
月の光の下で、
まるで祈るように触れたその唇に、
梶原は胸の奥が引き裂かれるような想いを覚えた。
すぐさま、あやのを抱きしめる。
その力は荒々しくさえあったが、
どこまでも、深く、温かかった。
「……俺、お前が……」
言葉にならない想いの代わりに、
額に、頬に、耳に──口づけの雨が降った。
「あっ……こら、酔っぱらい……」
やんわりと手で胸を押すあやの。
けれど、その目は優しく、拒んではいなかった。
梶原は、そのすべてを確かめるように、
掠れた声で問いかける。
「……このまま……抱いても、いいか?」
沈黙。
その一瞬の間に、いくつもの思いが通り過ぎる。
あやのは、耳まで真っ赤になりながら、
視線をそらして、小さく頷いた。
それは、どんな言葉よりも確かな──
許しと、受け入れと、愛の証。
夜はふたりを静かに包み、
どこか遠く、アカシック・レコードの灯りが、
夢のように揺れていた。
誰よりも優しい魔力と、
誰よりも強い想いが交わる、ただひとつの夜。
そして、それは記録にすら記されぬ、
永遠の一夜となった。




