小章:「誰より近く、誰より遠い」
その夜。
アカシック・レコードの南棟。
記録の修復室に戻ったあやのは、ふと漂う酒の香りに足を止めた。
部屋の隅には、司郎がひとり。
作業机に頬杖をつきながら、赤くなった目元で煙草を燻らせていた。
「あ……司郎さん」
「あやの。……あら、もう寝たかと思ってたわよ」
「ユラが水飲みにいってて、私もなんとなく目が覚めちゃって……。司郎さんこそ、こんな時間に?」
「んー……ちょっと、ね。酒、回っちゃって。頭ぐらぐらするけど、気分は静かで悪くないわ」
司郎が手招きする。
あやのは小さく笑って隣に腰を下ろした。
「飲みすぎ注意ですよ?」
「説教かい。もう、母親にでもなったつもり?」
「いえ、娘に戻った気分です。こうして司郎さんと夜更かしするの、久しぶりだなって」
その言葉に、司郎はふっと笑った。
「……ねぇ、あやの」
「はい?」
「……あたしね、あんたを、いつか“手放す”覚悟ができてなかったんだと思うのよ」
「……」
「世界で一番、美しい建築みたいな存在だったわ。どこにも隙がなくて、それでいてあったかくて、見上げてるだけで、涙が出るような子」
司郎の指先が、空中をなぞるように動く。
「だけど、建築と違って、あんたは“進んじゃう”のよね。変わっていくし、愛されて、選ばれて……それを、嬉しいと思う一方で、少しだけ……ほんの少しだけ、寂しいのよ」
静寂が流れた。
あやのは、司郎の頬にうっすら赤みがさしたのを見つけて、そっとその手を取った。
「……私は、司郎さんに育てられたこと、忘れたことなんて、一度もありません。誰に選ばれても、どこに行っても、“娘みたいな存在だ”って言ってくれた司郎さんは、今でも、私の家の一部です」
司郎が、少しだけ俯いた。
笑ったのか泣いたのか、あやのには分からなかった。
「……あたしが男だったらね、きっと“婿”なんて受け入れなかったわよ。あの筋肉野郎、ぶっ飛ばしてた」
「ぶっ飛ばさなくてよかったです。あなたと並べてくれるひとを、私は好きになれてよかった」
「……ああ、もう。やっぱりあんたはずるいわよ。そんなふうに、こっちの涙腺を平気で突いてきて……」
沈黙。
煙草の火だけが、弱々しく揺れている。
やがて、司郎は目を閉じた。
「……ほんとに、幸せになんなさい。どんなに世界が揺れても、記録が歪んでも、あんたの“幸福”だけは、あたしが、死んでも守ってやるわ」
あやのは、声を出さなかった。
ただ静かに、その背中に手を伸ばして、
そっと、肩に手を置いた。
司郎は何も言わなかった。
けれど、その肩が、
すこしだけ震えていた。
夜は深く、
ふたりを静かに包み込んでいた。
それは、記録にも書かれない。
けれど確かに、この世界に在った愛の一夜だった。




