小章:「火を灯すふたり」
夜。
アカシック・レコード、東棟の小さなバルコニー。
一日の設計作業を終え、あやのが眠りについたのを見届けて、梶原はそっと静かに酒瓶を持って現れた。
そこには既に、グラスをふたつ用意して待っていた男がいる。
司郎正臣。
ルームローブのまま、風に髪を遊ばせながら、ガスランタンの灯りを見つめていた。
「……来ると思ったわ。あんた、酒持って来る顔してたもん」
「読まれてたか」
「伊達にあんたの嫁の“師匠”やってないわよ」
ふたりの間に風が吹いた。
梶原は何も言わずに、持ってきた酒瓶を傾ける。
カラン、と氷の音が夜に響いた。
「……あやの、今日も歌ってたな」
「……ああ。風が震えてた。あいつの声は、聞いてるだけでこっちの芯がぶれる」
「ん、そうそう。あたしなんてもう、泣いたわよ。表には出さないけどね、プライドがあるから」
ふたりとも、同じようにグラスを傾けた。
少しだけ、火照った酒が喉を焼く。
「正直なとこ、司郎さん──あやの、誰にも渡したくなかったろ」
「そりゃそうよ。あの子は、あたしの“作品”でもあったから。この世で一番、美しくて、脆くて、強くて……
……だから、あたしが見てなきゃって、思ってたわよ」
「わかる」
「でも、あの子があんたにだけは顔を緩めるってわかったとき──悔しかったけど、安心もした。
……あたしじゃあの子を、“ただの女の子”にしてやれなかった」
静かな沈黙が落ちた。
夜風がふたりの肩を撫でる。
「梶原。あんたに言っておくわ」
「……」
「もし、あの子を泣かせたら──建築用の鉄骨で埋めて、記録にすら残らない建材にしてやるからね」
「……全力で守る。俺の命に代えてでも。それが、あいつをもらったってことの重さだから」
「ふん」
司郎がグラスを煽る。
「その言葉、ずっと忘れんなよ。あたしは忘れないからね。永遠に記録してやるわ」
「……望むところだ」
しばしの沈黙のあと、ふたりはふっと小さく笑った。
「──似た者同士ね、あたしたち」
「どっちが母でどっちが父か、たまにわからなくなる」
「ばか言いなさい。あんたは黙って力で守って、あたしは黙って涙を拭くのよ。それでいいじゃない」
遠く、あやのの寝室から微かな寝息が聞こえた。
静かな、平和な、宝石のような夜だった。
司郎が立ち上がる。
「さ、寝るわ。明日はまた、記録堂の改装あるから」
「“アカシック・レコード”な」
「……言いにくいったらありゃしない。あんたたちの代で、ちゃんと意味ある建物にしなさいよ」
「了解」
別れ際、司郎がふと梶原に問いかける。
「梶原。……あの子がこれから、どれだけのものを背負うと思う?」
「全部。……それでも、あいつはやる。だから、俺もやる。どこまでも、支える」
司郎はしばらく黙って、
それから小さく笑って、背を向けた。
「……気に入らないけど、気に入ったわよ。あんた」
「それ、どっちですか」
「両方よ。婿殿」
そして、扉が閉まる。
その夜、梶原はひとりでグラスをもう一杯だけ傾けた。
そこにあやのはいなかったけれど、
彼の中には、いつだって彼女の温もりがあった。




