小章:「無言の戦線」
アカシック・レコード・北棟。
構造補修の打ち合わせ後、
梶原と司郎は偶然(あるいは宿命的に)二人きりになった。
設計図を広げた大机を前に、
左にはきっちり折られた作業着姿の梶原國護。
右にはルーペ片手にコーヒーを啜る司郎正臣。
微笑はある。だが会話は、少ない。
「……補強梁、こっちはあやつけずに浮かせていい。逆に、南棟の床下は組み直すべきね」
「そっちはもう図ってます。あやのが冷えやすいんで。床断熱、二重にしました」
「……ほほぉ」
司郎の眼鏡が光る。
「ずいぶんと、細やかじゃない」
「嫁が冷えたら大ごとなんで。
──司郎さんの設計も、なるべく傷つけないよう工夫してますよ」
「ふぅん。まぁ……“あんたの嫁”って響きには未だに慣れないけどねぇ。あの子はあたしが拾って、あたしが育てたみたいなもんだから」
「そっちも、わかります。でも、それでも俺がもらったんで。俺の嫁です」
「……へぇ」
言葉は穏やか。
視線もぶつけ合わない。
だが、設計図の真ん中あたりから、なにかがパチパチと跳ねる音が聞こえるようだった。
司郎は煙草をくわえて、ふっと息を吐く。
「……で、あの子は今、どこ行ってるの?」
「ユラと幸と散歩。あとで迎えに行きます」
「ほほぉ。ずいぶん甲斐甲斐しいのね、婿殿は」
「そりゃ、うちの嫁が可愛いんで」
「……ッ!」
司郎の眉が一瞬だけ動いた。
それを逃さず、梶原がにやりともせず告げる。
「俺には“あの子”じゃなく、“あやの”なんで。名前、呼びます。毎晩、呼んでますから」
「……おだまりなさい、筋肉バカ」
「どうも。地上最強の筋肉バカです」
──ピシリ、と設計図が裂ける音がした。
(※実際には誰も破っていない)
冷戦状態に入りそうな空気を、
そのとき、廊下から駆けてくる足音が破った。
「司郎さん、梶くん〜!」
ユラを抱きかかえたあやのが笑顔で入ってきた。
「もうっ、何してるの? その距離感、なに?」
司郎と梶原、同時に振り返る。
だが顔には、さっきまでの殺気などどこにもない。
「打ち合わせよぉ? ねぇ?」
「……ああ。ちょっと話してただけだ」
あやのが眉をひそめた。
「嘘だ。今、ユラの尻尾が“ケンカの匂い”って言ってたもん」
「「……ばれたか」」
三人のあいだに、静かな笑いが落ちた。
ふたたび戦線が張られるのは、きっとまたすぐだろう。
けれど──その火花が、彼らなりの“家族”の証だということも、
あやのはよく知っていた。
そして、ユラがこっそりぴょんと立ち上がって呟いた。
「ふたりとも……こわくて、やさしい」
その声は風に紛れ、記録の中に小さく刻まれた。




