小章:「沈黙の上の風音(ふうおん)」
場所は、神界。
どの界からも遠く、記録からも遠く、
天と光の果てにあるとされる、静謐と規律の世界。
ここには──神の名を冠する者以外、声を持たない。
語らず、争わず、ただ“整然”としてあるべきものとして存在する。
界を跨ぐ会議にも参加せず、ただ静かに高みから見下ろすのみであった。
けれどその日──
アカシック・レコードに響いた風の歌が、
初めてその“高み”にまで届いた。
誰の意図でもなく、誰の計算でもなく。
ただ、“風が運んだ”のだった。
神界・天頂の大図殿。
十六枚の光羽を持つ長命の天使たちが、無音のまま、記録を巡っていた。
そこに、ふいに吹き込んだ風。
規則にない、外界からの揺らぎ。
最初に立ち止まったのは、一人の若き記録守──
名を持たぬ、“第零の筆翼”。
彼は立ち止まり、空白のページに滲んだ旋律の痕跡を見た。
それは言葉ではなかった。
記録でもなかった。
なのに──確かに“あった”。
──流れてゆけ どこまでも
迷わぬ風に なれたなら
彼の羽が震えた。
記録の白紙が、揺れた。
「……この声は……」
誰も言葉を発さない神界で、
その瞬間、初めて“ひとこと”が紡がれた。
他の天使たちが顔を上げる。
記録殿の上空に、ふわりと現れた薄青い紋章──
風の庇護紋。
これは、神界の記録には存在しない魔法の印。
神界の最上位、熾天たちの評議にまで、この波紋は届いた。
「他界からの“記録なき記録”が……神界に干渉した」
「これは、神の許しなき現象」
「否。これは──神ではなく、“風”の許しに基づくかもしれぬ」
やがて、熾天の一柱が立ち上がった。
「その声を記録せよ」
それは、神界における歴史の初記録だった。
声なき記録。
言葉を持たぬ歌。
魔力を制御できぬ者の祈りが、
神にさえ届くという、初めての証明だった。
あやのの歌が、神界に届いた夜。
誰も知らぬうちに、
神々の記録に、風の章がひとつ加わった。
その章の名は、まだない。
けれど──世界は、確かにひとつ、“動いた”。




