小章:「風の返礼、ひとりきりの歌」
夜。
アカシック・レコードの屋上庭園には、誰の気配もなかった。
ただ、星が瞬き、風が優しく石畳をなぞっていた。
あやのは、そっと腰を下ろしていた。
膝の上には、月麗から贈られたリュート。
真珠のような月明かりが、リュートの木肌を柔らかく照らしている。
あやのは、静かに弦をはじいた。
──ぽろん。
最初は音にならないほど小さな響き。
けれど、すぐに風がその音を拾って、空へと運んでいった。
ユラが、足元で丸くなって眠っている。
尾が、風のリズムに合わせてわずかに揺れている。
あやのは、リュートを抱えたまま、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう、って、言いたかったの。
誰にって……ううん、たぶん“風”に。
そして、魔法に。
それから、歌に。──それと……私自身にも」
ぽろん。ぽろん。
音は、いつのまにか旋律に変わっていた。
それは言葉にならない祈り。
風と共に歩み始めた、小さな魔法使いの“覚悟の詩”。
あやのの唇が、音の波にそっと言葉を添えていく。
「──流れてゆけ どこまでも
迷わぬ風に なれたなら
誰かの涙を 撫でるように
私も、誰かを 守れるのかな」
「まだ怖いよ でも
歩いていくと決めたから
この手で この声で
ひとつずつ 届けていくよ」
その歌は、風とともに夜の空へ溶けていった。
リュートの音色は、月の光に染まりながら、
風に乗ってアカシック・レコードの記録空間を優しく満たしていく。
誰もいないはずのその場所で──
しかし、記録に耳を澄ます者たちは、確かにその“歌”を感じていた。
冥界の帳に仕える者は、その音の律動に微細な共鳴を記録し、龍界の記録官は、夜空の脈動に“音律の兆し”を読み取った。
魔界の月下、梶原は何も知らぬまま、風に揺れるカーテンの向こうに、微かにあやのの声を聴いた気がして、目を開けた。
──誰かが、何かを始めようとしている。
そんな予感が、世界の複数の場所で、同時にふわりと生まれていた。
歌い終えたあやのは、静かにリュートを抱きしめた。
「……これが、私の魔法」
ユラが小さく鳴いた。
風が、ふたたびあやのの髪を撫でた。
それはたしかに、
風への返礼であり、
未来への覚悟だった。




