第四十九章 The First Composition ― 音を描く者たち
朝靄にけぶる摩天楼。そのすき間を縫って、まだ微かに湿った空気がレンガの壁をなでていく。
新聞配達の音が遠ざかり、サイレンの尾がビルの谷間に吸い込まれる頃──
あやのは、まるで音に導かれるように目を覚ました。
「……昨日のは、夢じゃなかった」
自分の声が、部屋の空気に溶けていく。
マンハッタンの下町にある小さな滞在先。その角部屋の窓からは、工事中の再開発区が見えた。
昨夜のハミング。ヘイリー・マカフィーという女性との、言葉を介さない対話。
あの響きは、確かに現実だった。
あやのがキッチンに向かうと、すでに司郎が何かをしていた。
だがコンロに火はなく、電子レンジのドアを開けたまま、眉間にしわを寄せている。
「……その顔、たぶん失敗してますね」
「電子レンジって、なんで“チン”するだけで終わらないのかしら……あ、起きたのね。おはよう。勝手にまたフラッとどっか行ったら、マジでグリーンカード取り上げるから。書面で。ハンコもらうわよ」
「……反省してます」
「反省してない顔してるけど。ま、いいわ。ちょうど連絡が来たのよ」
そう言って司郎が手渡してきたのは、一枚の古びたプラン用紙だった。
印刷のインクが少しかすれている。だが、そこに書かれていたプロジェクト名は鮮明だった。
「Sonic Nexus:音と空間の対話」
「南端のウォーターフロント再開発区で、アート&サウンドの実験ホールを建てるって話よ。市と民間合同のコンペ形式。で、あたしと……あなたに、直接オファーが来たの」
「えっ……私に?」
「ヘイリーってラテン系の音楽家、知ってる? 向こうの推薦らしいわ。あんたが共鳴設計を担当することが前提で」
あやのは、少しだけ息をのんだ。
「……昨夜、会いました。音で、話しました」
「……へえ、そう。あたしには“音で話しました”がもう理解できないけど……でもまあ、相性がいいならちょうどいいじゃない。建築はあたしがやる。あんたは、空間に音を入れる手伝い。いいわね?」
あやのは、即答した。
「はい!」
けれどその声は、いつもより少し、深くて、強かった。
⸻
数日後。郊外の古いレコーディングスタジオ。
白い壁に染みのある天井、古ぼけた吸音板。だがその空間には、不思議と温度があった。
ヘイリー・マカフィーは、すでにピアノの前にいた。
姿勢を正し、鍵盤に指を置いて、あやのをじっと見つめる。
挨拶も言葉もいらなかった。
ふたりはまるで、長く一緒に音を探してきた同志のように、自然と作業に入った。
ひとつのピアノの音が空間に放たれる。
あやのがその余韻を聴き取り、呼吸のようなハミングを重ねる。
それは旋律ではなかった。
音が、音に問いかける。空間が、それに答える。
──まるで、音と音が語り合っていた。
天井に吊るされた仮設の音響板が、微かに震えて返事をした。
あやのは、その振動の変化を静かにメモしていく。手元のスケッチに曲線を引き、音の「流れ」を可視化していく。
やがて、ヘイリーが手を止めた。
彼女の視線の先には、あやのが描いたラフスケッチ。
回廊を音が走る。足音や声が反響し、それさえも「演奏」の一部になる──
建築が、音楽になる。空間が、言葉を超える。
ヘイリーは静かに、しかし確かな意志で、うなずいた。
そのやりとりを少し離れたところから見ていた司郎が、腕を組みながらぽつりとつぶやく。
「まったく……あたしの仕事、取らないでよね……」
それが冗談だとわかったふたりは、顔を見合わせて、声を出さずに笑った。




