第五章 山の口がひらくとき
風が変わった。
それは海辺の街から離れ、いくつもの山を越えたころだった。
鉄の匂いを孕んだ冷たい風が、顔の輪郭をなぞっていく。
そして、その風の奥に、かすかな懐かしさが混じっていた。
遠野――。
山深く、人の言葉よりも獣の気配が濃く残るこの地に、あやのはたどり着いた。
あてもなく南へ歩き続けた日々のなかで、何度か人に道を聞いた。
彼らは誰もが言った。「この先にある町は、昔話がよく残っていて……ちょっと、変わった土地ですよ」と。
あやのにとって、その言葉は誘いに聞こえた。
町の入り口には、朽ちかけた看板が立っていた。
苔むした木の柱には「遠野」と墨で書かれていたが、時間の重みによってほとんど滲んでいた。
そこから先、舗装の行き届かない山道を歩いた。
足元には落ち葉と濡れた石。空は低く、曇りの天気が続いていた。
……その日、あやのはひとつの音に導かれた。
金槌の音。鉄と鉄がぶつかる硬質な音が、森の奥からかすかに響いていた。
それは人の営みの証だった。
山のなかで聞くにはあまりに人間らしいその音が、どこか心地よかった。
音を頼りに森を抜けると、そこには開けた土地があった。
地面はならされ、仮設のような小屋がいくつか並んでいた。資材。木材。鉄骨。ブルーシート。すべてが整っているのに、どこか不思議な秩序だった。
そして、彼はいた。
梶原國護。
大柄な影が一つ。フード付きの作業着を着て、黙々と板を削っていた。
目は伏せられ、無駄な動きはない。
体のすべてが「働くこと」に集中していた。
あやのは、その姿に立ち止まった。
そして、なぜか――自分がこの場所に迎え入れられると、直感した。
彼は顔を上げ、あやのを見た。
赤い瞳が、ほんの一瞬だけ光った。
それは、警戒ではなかった。
でも、歓迎とも違った。
ただ――心を動かされた者の目だった。
二人のあいだに、言葉はなかった。
だが、あやのはその場から動かなかった。
梶原もまた、再び作業に戻ったが、ときおりあやのを見やった。
静かなやりとりが、夕暮れまで続いた。
その夜、あやのは薪小屋に泊められた。古い毛布と湯たんぽ。差し入れのまんじゅう。無言のもてなし。
それは、追われてばかりだった日々のなかで、あやのが初めて受け取った「ただの善意」だった。
山の匂い。土と木の音。虫の羽音。
ここには、甲斐のような視線はなかった。
この地は、あやのの「異質さ」を、責めもせず、珍しがりもせず、ただ受け止めていた。
そしてあやのもまた――梶原という不器用な男の中に、自分と同じ「寂しさ」を見つけていた。
その日から、ふたりの暮らしが始まった。