小章:「風の詩(うた)が、ひらく」
場所はアカシック・レコード、風の回廊。
帳に記録されたすべての風の名と流れを視覚化する──
司郎の設計したこの空間は、かすかに螺旋を描く白い石造りの回廊だった。
あやのはユラを伴ってその中央に立っていた。
周囲には誰もいない。
ただ風だけが、今にも語りだしそうな音を孕んでいた。
「……いけるかな、ユラ」
ユラは振り返り、あやのの目を見た。
その尾がふわりと広がり、空間の“気”がわずかに揺れた。
それだけで、あやのには分かった。
「やろう」と言ってくれている。
あやのは深呼吸を一つ。
そして、手を前に差し出した。
──魔力を、使う。
それは、かつて彼女が封じられていた“禁じ手”だった。
膨大すぎる内なる力が、放たれれば災厄を生む。
けれど今は違う。
彼女の掌にあるのは、“風”──ユラ。
触媒としてのユラを通してならば、魔力は世界へと溶け出し、静かに形を成す。
「──風よ、語って。ここにひとつ、祈りを刻みたいの」
ユラが尾を開いた。
その瞬間、風が走った。
風の回廊に刻まれた無数の記録文字が、一斉に宙へと舞い上がる。
ふわり、ふわりと、文字が風に溶けて──
音になった。
──風の詩だ。
音にならぬ、けれど確かに“読まれるべき何か”が、
あやののまわりに旋律のように広がっていく。
そして、回廊の中央に──
ひとつの文様が浮かび上がった。
それは精霊魔法における風の庇護紋。
魔法そのものは大きくない。
けれどそれは、風に祝福された“護りの呪文”。
あやのが初めて、
自らの意思と声によって発動させた、魔法だった。
彼女は涙をこらえながら、微笑んだ。
「……できた」
ユラがひとつ、小さく鳴いた。
まるで、ずっと待ってたよ、と言わんばかりに。
風の中で、尾が優しく揺れる。
やがて、遠くから誰かの足音が近づいてくる。
その気配にあやのが振り返ると、そこにいたのは──司郎だった。
「──やったわね、あやの。……風が、やっとお前を受け入れたのね」
あやのは司郎を見上げ、胸に手をあてた。
「……ちがうよ、司郎さん。風は、私を“ずっと”見ててくれたんだ。ただ、私が怖くて、見返せなかっただけ」
司郎は頷き、ぽんとあやのの肩を叩いた。
ユラの尾が彼の腕にからまり、風の匂いが二人のあいだに流れた。
──この日、あやのは初めて魔法を使った。
そしてユラは、それを“風の詩”として記録に刻み込んだ。
精霊魔法の最初の頁。
それは風の子と少女の、まだ小さな一歩だった。
だが、世界はそのさざ波に、確かに耳を澄ませ始めていた。




