小章:「ぬら爺のことば──風は誰のものでもない」
場所は、妖怪の里。
静かな夕暮れ、苔むす庭の一隅。
あやのは縁側に腰を下ろし、ユラを膝に乗せていた。
六つの尾が、まだ涼やかな風の中で小さく揺れている。
その隣に座るのは、ぬらりひょん──
かつてあやのを育てた妖たちの長、ぬら爺だった。
湯飲みを一口すすったあと、彼はゆっくりと口を開いた。
「……この子、ユラといったか。風の精霊獣。しかも、精霊界が“名も与えず、形も定めずに渡した”……そう聞いたぞい」
あやのは静かに頷く。
「私が名をつけたの。“ユラ”。風のゆらぎ、って」
「ほう」
ぬら爺は、ユラをじっと見た。
その目は優しく、だが見抜くように深かった。
「風ってのはの。“誰のものでもなくて、どこにでもいるくせに、どこにも属さない”……そんな性質じゃ。火や水や土は、相手に力を与えるかわりに、何かを求める。だが風だけは、“在る”だけでよいんじゃよ」
「……この子は、まだ仔だ。されどその尾の揺れ方を見れば、わしには分かる。この子は、“境”を知っとる。おぬしが渡るべき界のあいだで、風のように先んじて動く役目を持っとる」
「境……」
「うむ。ユラは“界と界の呼吸をつなぐもの”じゃ。時に前触れとなり、時に拒絶を知らせ、やがて“おぬしが踏み越えてはならぬ一線”に尾を絡ませる」
あやのは、ユラの柔らかな毛並みにそっと手をのばした。
「……じゃあ、この子は“警告”なんですか?」
「それも違うな。この子は“選択肢”じゃ。おぬしが何かを選び、誰かを選ばなかったとき、風はその隙間を知っとる」
ぬら爺は、あやののほうを見ずに言った。
「風は、時として“おぬしのために吹く”が、それを御したつもりになると、ひと吹きで全部持っていかれる。……だから、この子は友であり、道しるべでもあり、時に罠にもなる」
「……怖いこと、言いますね」
「わしは怖がらせたんじゃない。“ものの本質”は、あらかじめ伝えておくべきじゃからな。風は、だまっとっても巻き込まれるが、よう見ておれば、“向こうから来る気配”だけは読める」
ぬら爺は立ち上がると、背を向けて、縁側をとんとんと歩き出す。
その背中に、あやのは声をかけた。
「……この子を、どうしたらいいと思います?」
ぬら爺は振り返らずに言った。
「風を飼うんじゃない。一緒に吹かれてやるんじゃよ」
残されたあやのの膝で、ユラがすん、と小さく鼻を鳴らした。まるで、「分かってるよ」とでも言うように。
夕風が、その尾をなでていった。




