小章:「風の王より、名を持つ者へ」
夜。
アカシック・レコードの天井に月の光が揺れていた。
光の界ではない、けれど、この帳の空には
すべての界の記録が微かに滲んでいた。
その中に届いた一通の封書。
封蝋には、風の精霊界における最上紋──
**蒼穹の羽環**が刻まれていた。
開封を任されたのは、あやの。
ユラは彼女の膝の上で眠っていたが、
封書が開かれた瞬間、耳を立て、静かに目を開けた。
──風が、呼ばれていた。
《名を持つ者へ。風の伴侶を預かりし、真木あやの殿》
──“ユラ”は未だ、ただの仔にすぎません。
されど、あなたがその名を与えたことで、
風は一つの意志を持ちはじめました。
風とは、本来、誰のものでもない。
しかし、名を与えられた瞬間から、
風は初めて“行き先”を持つのです。
あやのは、静かに手紙を読み進める。
その文体は淡く、それでいて“深い記憶”に触れるような手触りだった。
この獣は、いずれ“風の鍵”として開かれる扉に関わるでしょう。
あなたの旅が“静かな終わり”へ向かうのか、
あるいは“もう一つの始まり”へ向かうのか。
風は、言葉を持たずとも、それを選びます。
あなたがこの仔を真に理解し、見失わぬ限り──
風は裏切らない。
ふと、ユラがあやのの掌に鼻を寄せた。
風が一筋、帳の空間を渡る。
──伝わってくる。
言葉ではなく、鼓動のような気配。
“あなたといっしょにいたい”という、ただ一つの選択。
蒼穹の羽は、遠くから見守ります。
風は、最も遠くからでも届く。
それが、我らの在り方です。
──《風の精霊王 蒼穹》
手紙の結びに添えられたのは、細く巻かれた一本の羽。
それはただの羽根ではなく、**魔力の流れを視覚化できる“風の計”**だった。
司郎があとで言った。
「これ、記録空間の通風設計に使えるわね。……風の精霊、相当本気よ」
梶原は腕を組んでうなった。
「……そいつはつまり、“風の子”が、近いうちに何かしら“動く”ってことだな」
ユラは何も言わず、尾をふるりと揺らした。
でもあやのには分かった。
──この子は、ただの贈り物じゃない。
風の王が、「もう一人の旅人」として、あやのに託した存在なのだと。
その夜、あやのは初めて、
ユラに向かってそっと語りかけた。
「……ユラ。どんな扉が待ってても、一緒に行こうね」
小さな風が、静かに頷いた。




