章間挿話:「裁きの手に、抱くもの」
冥界。
帳の奥深く、影のように静かなる場所にて。
ひとり、閻魔は立っていた。
彼はいつもの黒衣ではなく、軽装のまま、
石の長椅子に腰かけていた。
手には、欠けた小さな木片。
――あの日、あやのに文字を教えるために使った、最初の「書き板」。
「小さいの」と初めて呼んだ日から、この手は“裁きの手”であると同時に、“支える手”であると誓った。
泣かないあの子に、言葉を与えたのは「導きたかった」からではない。
生きていていいのだと、伝えたかった。
冥王という職は、常に孤独だ。
あらゆる死者の未練を受け取り、あらゆる魂の嘘を見抜き、そして何より、誰の涙にも心を寄せない厳しさを求められる。
だが──
彼は、今もその心の奥に、たったひとつの弱さを抱えていた。
あの子が泣いたら、迷わずこの手を伸ばしてしまうだろう。
会議の場でも、あやのは己の使命を貫いていた。
声を震わせることなく、記録者としての意志を言葉にした。
立派だった。
だが──
「まだ、あの子は自分がどれだけ孤独なのか気づいていない」
閻魔はそっと目を閉じた。
「……その孤独が、世界から与えられたものであるならば。俺はせめて、世界から“奪う者”になろう」
彼は、石の台座に木片を置いた。
次にこの場所を訪れる誰かが、拾えるように。
──その夜。
あやのの帳のそば、まだ誰にも読まれていない一枚のページに、
誰が書いたとも知れぬ文字が浮かんだ。
小さいの。
たとえ君がすべてを記す者になったとしても、
君自身の涙を、記録の外に忘れるようなことがあってはならない。
君は君のまま、いてくれ。
名前をくれた者としての、ささやかな願いだ。
光が消え、帳の頁は静かに閉じた。
そして、冥王は再び影の中に姿を溶かした。
誰に知られることもなく。




