第四十八章 Silent Beats ― それでも、音はある
夜のニューヨークは、昼間とはまったく違う顔をしていた。
高層ビルの隙間を抜けて、地下鉄が唸り声をあげる。どこまでも連なるブロック塀に、無数の言葉と絵が塗り込まれている。
その夜、あやのは司郎の監視の目をすり抜け、ほんのすこしだけ外に出た。
──ほんの数分、音を探しに。
だが、彼女が路地の奥で足を止めたのは、偶然ではなかった。
小さな赤レンガの建物の地下から、かすかに浮かび上がるトランペットの呼吸。
風にまぎれて漏れ聞こえてくるその音に、あやのの心が揺れた。
階段を降りて扉を開くと、そこは小さなクラブだった。
ステージには古いピアノとサックスの男、そして──
ステージの隅にいたのは、褐色の肌に艶やかな黒髪、ラテンの血を引く若き女性。
彼女はスカーフで首元を包み、マイクの前に立っていた。
だが彼女は、歌わなかった。
ただ、指先で音を“描く”ように、空気を震わせていた。
その瞬間、あやのの中にあった何かが、するりとほどけた。
知らず知らず、彼女は唇を開いていた。
──声ではなく、音を紡ぐために。
小さく、小さく、音にもならないハミングが、空気の膜を震わせていく。
女性──ヘイリー・マカフィーの視線が、まっすぐあやのを捉えた。
まるで、ずっと探していた“共鳴”に出会ったかのように。
ステージが終わると、ヘイリーは言葉を発さずに、ただ手を伸ばした。
あやのの前に差し出された手。
指先に刻まれた無数の古いインク跡と傷痕。
それは、音楽にすがって生きてきた者の手だった。
「……真木あやの、です」
ヘイリーは微笑んだ。
その微笑みが言葉の代わりだった。
──彼女は声を失っていた。けれど、音楽は持っていた。
その夜、あやのは初めて誰にも気づかれず、音楽に触れた。
ゲストハウスに戻ると、司郎が鬼の形相でドアの前に立っていた。
「あ・や・のォォォォ!!!!!」
「……ごめんなさい、でも……」
「あんた、どこ行ってたのよ!! GPSつけときゃよかった!!」
「……音が、呼んでたんです」
司郎は頭を抱えた。
「もう……一歩も出ません……」
けれどあやのの唇には、夜の残響が、まだ微かに震えていた。