特別章「はじめての言葉、はじめての名」
──妖怪の里、過去の風景より
静かな夕暮れだった。
梢がざわめき、山から吹く風が木の葉を転がす。
あやのがその日、夢のような記憶の中で見たのは、
かつての――まだ名を持たぬ、自分の姿だった。
草の上にしゃがみこみ、口を開かぬ子どもがいた。
真珠色の髪をふわりとなびかせ、誰の声にも、返事をしなかった。
けれど一人だけ。
彼女の隣に、毎日座っていた者がいた。
「……小さいの」
その声は、静かで、深かった。
少年の姿をした彼は、少し大人びていて、瞳にいつも光の陰を宿していた。彼は知っていた、この者はまだ声の出し方を知らないだけだと。
「これが、“音”ってやつだ。
風が葉を揺らすのも、鳥が鳴くのも、声も、全部“音”だ」
小さなあやのは、じっと耳を澄ませた。
葉擦れ。遠い鹿の鳴き声。どこかで鳴った鈴の音。
閻魔は続けた。
「そして、これは“言葉”。“風”と呼べば風になる。“葉”と呼べば葉になる。言葉を知れば、世界は違って見えるんだ」
何度も何度も、彼は繰り返し教えた。
声の出し方。
音のつなぎ方。
意味の重ね方。
その日、あやのは初めて小さく声をもらした。
まだかすれる音だったが、それは、
「……こ……え……?」
閻魔は目を細めた。
「そう、“声”。よく言えたな、小さいの」
日がまた沈み、何日も過ぎたある日、
あやのは彼の手元の紙を指差して、ぽつりと訊いた。
「これ、なんて、かくの……?」
「これは“ひらがな”。言葉を“しるす”ものだ」
「かいて、のこるの?」
「そうだ。“記録”っていう」
彼が、紙に筆を走らせる。
そこには、一行の文字が書かれていた。
まき あやの
「これは、君の名前だ」
小さなあやのが、目を丸くして彼を見た。
「……わたし、なまえ……?」
閻魔は頷いた。
「いつかこの名が、世界を記す者になるなら、その“はじめての文字”は、俺が書いてやりたかったんだ」
──現在、あやのはその夢から覚め、しばし目を閉じた。
《アカシック・レコード》の片隅にある休息室。
帳の光が静かに揺れている。
思い出すのは、誰よりも厳しく、
けれど誰よりも優しかった、あの冥王の姿。
そして、今も彼は自分を呼ぶ。
「……小さいの」と。
あやのはそっと帳の頁に指を置いた。
「閻魔くん……」
その声はもう、子どもの頃のようにかすれてはいなかった。
けれど、あの名をくれた声の響きは、今も胸に残っていた。
その名を名乗ったのは始まりのあの場所だった。




