第三十五章 記録を誰のために残すのか
《アカシック・レコード》の八角議場。
あやのの背後には開かれた帳──それは、まだ完全ではない未完の構造だった。
各界代表は、口を揃えて帳の利用規範を求めた。
「記録者の独立性を認めるにしても、最低限の規律と監査機関は必要だ」
──硯墨(龍界記録官)
「記録が力を持ち始めている。
あやの殿の善意は信じるが、それに甘えて“制度”を欠いてはならぬ」
──蒼穹(風の精霊王)
「このままでは、“記されるかどうか”が武器となる。
我らが選ばれる側になれば、争いは避けられまい」
──立野腕(魔界近衛筆頭)
あやのは静かに視線を落とす。
その目は、少し揺れていた。
「……私は、記すことで誰かを傷つけたくない」
「けれど、それは“書かない”という選択では、もう済まされないことも知ってる……」
沈黙の中、閻魔が立ち上がった。
「──帳は、“記すこと”で救われる命がある。だが同時に、“記されたことで壊れる者”もいる。それは、俺が冥王として幾万もの魂を裁く中で、嫌というほど見てきたことだ」
会場が静まる。
閻魔の声は理知的で冷静だった。
「それでも、帳の在り方に“外部の制約”を加えるべきではない。なぜなら、記録者は書き手であり、裁き手ではないからだ。裁くのは読む者であり、未来だ。
……我ら界の者ではない」
蒼穹が眉を動かす。
「では……記録者は、いかなる責任も負わぬというのか?」
閻魔は静かに首を横に振った。
「違う。記録者は、“記したすべてを抱えたまま生き続ける”という最も重い責任を、最初から背負っている」
その言葉に、あやのの胸が一瞬だけ痛む。
でも、それは逃げたい痛みではなかった。
彼女は前に出て、帳の頁を一枚、ゆっくりとめくる。
「私は……書きます。制度のためじゃなく、この世界の“続き”を読むために」
議場が静まりかえる中、閻魔が最後に言った。
「この者の記録に、冥界は全幅の信を置く。我らが干渉するのは、記録が真実を歪めた時のみ。……それが、冥界の立場だ」
その一言に呼応するように、硯墨が口を開いた。
「……ならば龍界も、それに倣おう。ただし、“記録の保存体制”については協議を残してほしい」
蒼穹が静かに目を閉じてうなずき、
立野腕が短く言葉を継いだ。
「記録者の裁量に任せる。だが、“歪み”が見えた時には即時に対処する。それが魔界の立場だ」
こうして、界橋会議第一回本会議は、一定の合意とともに幕を下ろした。
記録は続けられる。
しかし、それがどこまで続けられるのか、
その道筋は、まだ霞んでいた。
あやのの手元の帳が、またひとつ風を孕んで鳴った。
その頁には、まだ記されていない誰かの声が、
遠く、かすかに響いていた。




