第三十三章 囲まれる、ということーー梶原國護の眼
夜の風が、帳の骨組みを鳴らしていた。
《アカシック・レコード》の外縁部。
まだ未完の石柱の影に、ひとり、梶原國護は立っていた。
眼前には、他界から運ばれた物資、交錯する使節、交わされる密書と沈黙。
目立たぬよう動く“それぞれの界の使者たち”の動きが、何より露骨だった。
──あやのを中心に、力が集まっている。
それはもう、「ただの記録者」などではない。
**政治と魔力が求心する“核”**として、
あやのは、いまこの場所に“立たされている”。
精霊界の風の一団が、静かに《アカシック・レコード》の“風章の区画”に詠唱を流している。
あれは、護りではなく“監視”の結界だ。
冥界の使者が、夜明け前に“記録の読み権”を要求してきたのも知っている。
龍界の記録官が、司郎に「帳の鍵の副写」を求めたのも。
──梶原はただ、何も言わずに立っていた。
彼の視線の先、中央区画。
あやのが、光の章と闇の章の交わる“空白の間”で、ひとり頁を撫でていた。
頬は少しやつれ、唇は微かに色を失っていた。
「……」
あの子はまだ、“書きたいから書いている”と、思っている。
だがその帳がいま、いくつもの権力と魔力に囲まれていることを、
もう完全に“知らぬふりはできない段階”に来ている。
「國護殿」
声がした。
魔界の重鎮、立野腕が、瓦礫の上に腰を下ろしていた。
「見てるね、あの子のこと。俺も見てる。……でも、アンタのほうが目つきが怖い」
梶原は黙っていた。
「アンタも鬼だ。“匂い”で分かるだろう。どの界があの子を引きずり込もうとしてるか」
──分かっている。
分かっているのだ。
あやのの帳は、もう“中立”ではいられない。
なにかひとつ記すたびに、界が揺れ、利権が傾く。
彼女を止める者も、守る者も、利用しようとする者も──
みな、“記録という火”に群がる。
だが、梶原の答えは変わらなかった。
「……あいつの意志が折れた時は、俺が帳ごと燃やす」
立野腕は目を細め、笑った。
「こっわ……けど、頼もしいな。どの界の代表も、あの子に言えない言葉を、アンタだけが言えるのか」
その夜、あやののもとに、黒い犬がそっと寄り添っていた。
──幸。
梶原が贈った、あやのを守る忍犬。
それは、彼の意志が常に“そばにある”ということの、静かな証だった。
風がまた、建築中の帳を鳴らした。
ページのような音が、低く、長く、響いた。
梶原は手にした槌を握りしめ、
──「守る」という言葉を、誰にも聞こえぬ声で、心の底に刻み込んだ。




