第三十章 暁花、語る光の傷
光に満ちた庭に、風が通り抜けた。
それは一瞬で、すべての音を沈黙させる静寂だった。
あやのが帳面を開いていたその時。
ページの“白”がふと淡く光り、そこから一輪の白い花が咲いた。
その中心に、姿があった。
──暁花。
光の精霊王。
彼女は人の姿をしていたが、その輪郭はあくまで仮初のもの。
眩しさと哀しさを帯びた透明な輪郭。
瞳の奥には、かつての星々の記憶が宿っているかのようだった。
「……あなたが、私の名を記した人ですね」
あやのは驚きながら、立ち上がって深く頭を下げる。
「はい。私は真木あやのと申します。あなたに無断で“名”を記してしまったこと……ごめんなさい」
暁花は、ふっと微笑む。
「怒ってはいません。でも、少し……痛かったんです」
「痛かった……?」
「“名を与えられる”というのは、それだけで“かたちを与えられる”こと。私たち光の精霊は、本来“かたち”を持ちません。あるのは在り方だけ。だけど、名が書かれた瞬間から、“暁花”という私のかたちが、世界に縫いとめられてしまった」
あやのは言葉を失う。
それはまさに、記録者の行為が持つ“創造”と“暴力”の両面だった。
「……でも、あなたは“私という名前”に、悲しみや境界ではなく、光を見ようとしてくれた」
暁花は、記録帳をそっとなでるように見つめる。
「……光が滲んだのは、あなたのせいではありません。
“名が世界と交わった”からです」
「名が……世界と交わった?」
「はい。名はただの音じゃない。“呼ぶ”こと、“記す”ことは、その存在とこの世界を繋げる橋になる。……でも、時にそれは、私たちの在り方を“固定してしまう”こともあるのです」
あやのは、ページの上に手を置いた。
「……私はまだ、“記録”が何なのかを、ちゃんと分かっていないのかもしれません」
「記録は、まだあなたの中で、生きて変わっていくもの。でも、それでいい。私がここにこうして在ることは、あなたが“私の名”を呼んでくれたからなのだから」
暁花は、光の粒を掌に集める。
その光はひとつの文字になった──
それはあやのが記した“暁花”とは違う、元の言語での、光の名。
「これは、私たちが“光として記す”名です。もし、あなたがこの先も帳を編むのなら、“私たちの言葉”も一緒に、記してくれませんか?」
あやのは深くうなずく。
「……それが、名を与えてしまった私の責任だと思います。それでも、あなたのことを“記して”いきたい」
暁花はほほえみ、静かに言った。
「ありがとう、あやの。あなたが“呼んだ名”の意味は、まだここから育っていくのです」
そして彼女は、再び光の中へと溶けていった。
白い花はゆっくりと閉じ、記録帳の頁は一度そっと閉じられた。
その裏に、淡く、ひとつの新しい文字が残っていた。
──**「光の記憶、第一語:クゥアリア」**
それは、暁花があやのに託した、光の側の“記録言語”の始まりだった。




