第二十九章 名が滲む時
精霊界の境界にほど近い、風が静止する場所。
そこに、ひとりの使者が現れた。
彼の名は──アロス。
暁花直属の“光の精霊たちの記録補佐官”、そして“光文の監視者”。
その姿は、若き人間のようだが、
肌は淡い光そのもので形作られ、瞳は光源のようにぼんやりと淡く光っていた。
「真木あやの殿に、お伝えしたいことがある」
「──光の名が、滲んでいます」
あやのは記録帳を取り出し、開く。
そこには数日前、自らが記した**“暁花”という名を含む精霊記録**の頁があった。
しかし、そこに異常があった。
──名が、淡く光りながら、滲んでいる。
書いたはずの“暁花”の文字の輪郭がぼやけ、
まるで光が紙面から抜け出して、周囲に染み出しているかのよう。
「……これは、私が何か間違った記述を……?」
アロスは首を横に振る。
「書かれた言葉は正しい。だが、“光そのもの”が界を越えて、帳の中に宿ろうとしている」
「……言葉のなかに?」
「はい。あれは名ではありません。“在り方”です。光は、本来名前を持たない。暁花という名は、我らが与えた仮の音──それを“記録”という形で固定したことで、在り方が名に引き寄せられているのです」
あやのは静かに息をのむ。
「……“記録が在り方を決めてしまう”」
「まさに、それが“滲み”の正体です。名が、光を閉じ込めようとし、光が名の形を壊そうとしている。結果、帳に書かれた“光の文字”が、周囲の記録を侵食し始めた」
「……もしかして、他の頁にも影響が?」
「いずれ起こります。光は、在るもの全てに作用する。それを抑えるには──**“記録の境界”に新たな枠組みが必要です**」
アロスは、帳に栞のような細い光の布を差し込んだ。
「これを、“光封じの印章”として使用してください。光の記録を“ひとつの区画”に留めておくためのものです」
「ありがとうございます……ですが、私はこれを“閉じる”ことが正しいのか、まだわかりません」
あやのは、滲む文字を見つめながら言った。
「暁花さんは、自由を望んでいました。その光が名にとどまらず、広がっていくことは──“在り方そのものの解放”になる可能性もある」
アロスはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「……だからこそ、これは“警告”ではなく、“報せ”です。光が動いている。名が、名以上の何かになろうとしている」
「それは、記録が“生きている”ということかもしれませんね」
アロスは一礼し、光に還るようにして姿を消した。
その背に、言葉のような、祈りのような響きだけを残して──
「名に縛られぬ者こそが、名に救われる」
その夜、帳のなかの“暁花”の名は、再び静かにかたちを取り戻していた。
しかしあやのは気づいていた。
そのかたちは、以前のものとは少しだけ違っている。
──記録は、変わる。
名は、滲み、広がり、やがて“在り方”へと還っていく。
そして、それは──
記録の帳そのものの“進化”のはじまりでもあった。




