第二十八章 火の香に目覚める記憶
龍界・封印の最深部。
──龍骨の間。
無数の巨大な龍骨が整然と並ぶこの場所において、
ただひとつ、赤く微かに発光する骨があった。
それが、**第三代龍王・燎紋**の眠りの跡。
「越境の王」と呼ばれ、名を封じられた者。
あやのがその前に立ったとき、帳面の白紙が自ら開き、文字が滲み出る。
【記録断章:応答】
龍王・燎紋、記されぬまま、今、問う
──名は、誰が呼び戻した
あやのは静かに答えた。
「……梶原國護。魔界の者が、“白緋蓮”を記した。
その花の記録が、あなたの中にまだ息づいていた」
空間がわずかに歪む。
龍骨が鳴動し、あやのの前に、**人の姿をとった“記憶の残響”**が現れた。
それは龍の片鱗を残しつつ、壮年の男の姿──
黄金の鱗に覆われた右腕と、片方欠けた角を持ち、深紅の衣を纏っていた。
──それが、燎紋だった。
「……おまえが、記したか」
「私は、見届けただけ。でも、あなたの記録がまだこの世界に残っていたのは、事実です」
燎紋は口角をわずかに上げた。
その笑みに、痛みと誇りが混ざっていた。
「“記す”ということが、こうも届くとはな……我が名を封じた者たちは、正しかったのだ。私は秩序に向かない。境を超えたがる龍だった」
「どうして、“境を超えた”んですか」
あやのの問いに、燎紋は答えず、代わりに手を伸ばして記録帳を一瞥する。
「……その帳には、どの界の言葉も乗る。その香は、どの界にも通じる。あの花は、我が妻が最期に遺した香りだ」
「……え?」
あやのの手が止まった。
「白緋蓮は、“界をまたぐ者”の死に咲く花。魔界の出であった彼女が、我がもとに来たその日から、私の生は、界の枠から外れた」
「あなたが越境を望んだ理由は、愛……?」
燎紋は頷いた。
「だが、記録はそれを許さなかった。我は“純血の龍王”であるべきだった。──だから記録された。“私は存在しなかった”と」
あやのはゆっくり記録帳を開く。
「……それでも、私は記したい。あなたが存在したことも、花が咲いた夜も、たとえ誰かが“記録するな”と言ったとしても」
「……おまえは、記録者か。それとも、反逆者か」
「どちらでもありません。ただ、“記されるはずだった声”を聞きたいだけです」
沈黙の中で、燎紋が手を差し出す。
あやのはその手を取った。
まるで、燃える記憶が手の中に流れ込んでくるようだった。
──その瞬間、帳面に新たな文字が刻まれた。
【龍界記録・再構築補遺】
名:燎紋
第三代龍王
特記事項:他界との接続を試み、“記録外”に葬られた
花名:白緋蓮
備考:魔界出身の后を持ち、記録に反して“つなぎ手”であった
記録が、戻ってきた。
忘れられた花の名が、ひとつの存在をこの世にふたたび結びつけた。
燎紋の姿が霧のようにほどけてゆく。
「記されることで、ようやく消えることができるのかもしれんな……」
「……記録は、存在を消すんじゃなくて、“還す”ものだと、私は思います」
最後に彼は微笑み、静かに言った。
「──ありがとう、記録者」
その夜、龍界の空に、ひとつだけ赤い星が瞬いた。
それは、存在を許された記憶が、夜空に還っていく証だった。




