第二十七章 咲かぬはずの花、咲く時
龍界・東南の山稜、封じの谷。
かつてこの地には、**一夜しか咲かぬ“白緋蓮”**という花が咲いたという。
記録にはない。
伝承にも残っていない。
その名を知る者は、もうどこにもいなかった──
はずだった。
だがある日。
その谷に、ひとつの音が届く。
──あやのが持つ記録の帳、その第一頁に、梶原が記した花の名。
それはまさしく、この地に咲いた“白緋蓮”の名だった。
【魔界記録・第一章】
名:白緋蓮
属:魔界花・光属性/夜咲き
生息地:不明(失われた谷)
備考:死者が名を呼ぶ時、ただ一夜だけ咲く
龍界・中央都。
硯墨は急報を抱えて、月麗のもとへ駆け込んでいた。
「龍骨の間で、反応が──!」
「何があった」
「……“記録になかったはずの花”が、記録に現れました」
「……あやのの帳に?」
「はい……彼女が、魔界の花の記憶を記した瞬間、
眠っていた“龍王第三代・燎紋”の記録が変質したのです」
月麗は目を細め、すぐに“龍骨の間”へ降りた。
そこでは、龍王・燎紋の骨が淡く赤く染まり、
かすかに“香”のようなものを漂わせていた。
その香こそ──
“白緋蓮”が咲いた証だった。
燎紋はかつて、界と界を渡る薬を調合しようとした「越境の王」だった。
だが、記録からその事実は削除された。
“秩序を乱す”という理由で、彼はすべての名前とともに封じられたのだ。
その記憶の奥にだけ、ただ一度だけ咲いた白緋蓮の香があった。
それが、魔界の記録と“共鳴”したのだ。
月麗は低く呟いた。
「……なるほど。
記録の帳とは、“消された記憶を繋ぐ橋”でもあるということか」
「これは……危険でしょうか?」
硯墨が問う。
「危険だ。だが同時に……必要な危険でもある」
同時刻、あやのはその異変を、身体の揺らぎとして感じていた。
胸の奥で、確かに香がした。
──それは、書かれたはずのない**“他界の花”の匂い**。
そして帳面の端に、知らないはずの筆跡が浮かび上がった。
【龍界記録・断章】
燎紋、白緋蓮の夜を渡る
花咲きて、香りはまだ世界の名を知らず
「……誰?」
彼女が呟いたとき、月麗から連絡が入った。
【至急、龍界へ来てほしい】
【“眠れる龍が、目を覚まし始めた”】
あやのは帳を抱き、風の門を開いた。
書かれなかった記憶。
名を消された者。
封じられた越境の想い。
──それらが、いま静かに“復唱されよう”としていた。




