第二十五章 禁域の夢
夜。
あやのは、精霊界の外れにある“無属性域”の草の寝床に身を横たえていた。
六王との邂逅を終え、ようやく訪れた静けさの中。
記録帳は閉じられ、星眼もまどろみの中に沈みつつある。
──その瞬間、風も匂いもない空間に、彼女の意識が引きずり込まれた。
気づくと、あやのは白い霧の中に立っていた。
どこにも地はなく、空もない。
ただ、流れているのは──時間の気配。
そして、霧が割れた。
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そこにいたのは、ひとりの男。
右と左で色の違う瞳、白銀の髪。
その衣は王であり、薬師であり、観測者である者の印。
──龍王・月麗
「あやの。これは夢だが、記録される夢ではない。だからこそ、私が君にだけ伝えられる」
その声は淡々としていたが、深く緊張を孕んでいた。
「龍界の禁域に、揺らぎが生じた」
「……禁域?」
「“眠龍の棺”──我らが歴代の王と古き龍たちが、記憶を閉じて眠る場所。そこに、他界の記録が侵入した」
あやのは、胸の奥が冷えるような感覚を覚える。
「……私の記録のせい、ですか」
月麗は首を振った。
「否。君は記しただけだ。だが、“正しく記された記録”は、記されていない世界に浸食する」
「……“正しさ”が、傷を開くこともあると」
「そうだ」
霧の中に、ひとつの映像が浮かぶ。
金属の音。
かつてないほど巨大な龍骨が、ぐらりと動く。
その目は開かれ──
『名を返せ……記されし我が名を、誰が奪った……?』
「眠るはずの龍が、自分の記録にない“名”を見た。それは、おそらく精霊界で再構築された記録の一部……だが、“境界”がなければ、それはただの呪いだ」
「記録が、記憶を侵す……」
「そう。だから私は、龍界の記録と他界の記録の“接続”を再定義する必要があると判断した」
そして月麗は、ひとつの白紙の帳面をあやのに差し出した。
「これは、“記録のための記録”ではない。
“界を跨ぐ名の橋”──記録と記録の境目に立つ、唯一の中継点となるもの」
「私に……それを、書けというのですか」
「君しか、書けない。あやの、君はもはや“界”に属していない。精霊界も、魔界も、冥界も──君は“そのどれにも属さず、それぞれを記す者”だ」
「……私は、まだ怖いです。間違えるかもしれない。誰かを傷つけてしまうかもしれない」
月麗の顔が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。
「それでも、君は書くだろう。私は……君が書き終えるまで、龍界を保つ。たとえ眠りの龍たちが暴れ出しても」
「月麗さん……」
「これは、記録の夢だ。だが、“夢にも記す価値がある”。そう教えてくれたのは、君だよ。あの風の楼で、風を編むように言葉を紡いだ君が──」
あやのは、白紙の帳面を胸に抱いた。
それはまだ“名のない頁”。
だが、確かに“全ての界を繋ぐ架け橋”となる予兆があった。
目覚めの瞬間、あやのの目に一筋の涙が流れていた。
まだ朝は来ていない。
けれど、どこかで──
一匹の龍が、夜明けの空を仰いでいた。




