第二十四章 闇は記録の外側に
無明の底。
それは、精霊界のあらゆる記録層の下に沈む、“名もつかぬ空間”だった。
ここには記録はない。
光もない。
音も、重力も、時間さえも、あやのの感覚から剥がれていく。
──何もないのではない。
すべてが“記されていない”のだ。
「ここが……記録の、外側……?」
あやのの声は、声にならなかった。
彼女の言葉さえ、この空間には“記録されない”から。
そのとき、背後から微かに響いたのは──
**“誰かが何かを否定する気配”**だった。
「記録者。汝、未だ記されざる“自らの本質”を自覚するか」
その声は、あやのの心に直接響いた。
闇の中にひとつ、瞳だけが浮かぶ。
黒ではない。
深い深い紫に、星のきらめきを湛えた──
──闇の精霊王・幽冥
彼は言葉を持たない。
問いを投げ、答えを記さず、ただ相手の“記録の空白”を覗き込む。
「私は……まだ、自分のことを、記しきれていません」
そう伝えたとき、闇がざわめいた。
あやのの周囲に──彼女自身の“書かれなかった記憶”が浮かび始める。
いつから歌い始めたのか。
誰かの手を、拒んだことはあったのか。
本当は、誰かを羨んだことは?
自分を憎んだ日は?
「私は、“真木あやの”という存在を……他者の目に映る“記録”でしか定義してこなかった。でも、それだけじゃ足りない。私は、自分の“内側の闇”ごと、記録しないと──本当の意味で、記録者にはなれない」
その瞬間、幽冥の瞳がふっと細まった。
まるで、初めて“人としてのあやの”を見つめたかのように。
闇が動く。
あやのの記録帳がひとりでに開き、未記載の頁に文字が浮かび始めた。
【記録番号・未定】
わたしは恐れていた。
書くことが誰かを壊すかもしれないから。
わたしは羨んでいた。
誰かの明るさに、自分の陰が耐えられなかったから。
わたしは嘘をついた。
優しい人であろうとして、傷ついたふりをした。
わたしは、それでも……
記すことを選びたい。
闇を、心に刻んだうえで、光の意味を知りたいから。
それは、「他者の記録」ではない。
あやの自身が、“記録者として自分を記した”最初のページだった。
沈黙のなか、幽冥が手を伸ばす。
闇がひとつの“空の巻物”を差し出す。
それは、失われた全記録の原型。
精霊界にすら存在が認識されていなかった“根源の記録”。
──「いまから、ここに“最初の記憶”を記せ」と。
あやのは頷き、その巻物にペンを走らせた。
「これは、“記録の始まり”にして、“記録者が抱いた最初の問い”──なぜ、わたしは書くのか。その答えを、わたしは、これから探し続けます」
無明の底に、ふたつの灯がともった。
それは、幽冥の沈黙と、あやのの筆跡。
──それはまるで、宇宙の片隅にぽつりと記された、「最初の星の名前」のようだった。
闇が割れる。
光も音も時間も、再び彼女のまわりに帰ってくる。
幽冥の声が、最初で最後に、記された。
「記録者。汝の筆が、終わりを恐れぬことを──我は見届けた」
──こうして、六王すべての記録修復は、完遂された。
だが、すべてを記したことで、世界はほんのわずかに“かたち”を変え始める。
それは、新たな「四界の建築」と「魂の回廊」へと続く扉の音だった。




