章間「風を包む掌(てのひら)」
──魔界・湯の宿。
梶原國護は、帳場の隅に座していた。
手元には、冥界から届けられた封書。
差出人の名は、ただ一文字──
「あ」
それでも彼にはわかる。誰よりも、たしかに。
静かに封を切り、文を開いた。
『蒼穹さまという風の王に会いました。
名前を失った風たちが、彼を中心に少しずつ、思い出し始めています。
赫焔さまはとても熱い方で、記録を嫌う王でしたが、
それでも“灯してくれた小さな焔”が、残っていたんです。
だから私は、それを大切に抱えて、書きました。
きっと、誰かの火になるから。
……そちらは、元気にしていますか?』
梶原は、手を止めて、ゆっくりと瞼を閉じた。
宿の外では、忍犬の幸が気配を察して鼻を鳴らす。
まるで「あのひとの声がした」と言わんばかりに。
「……あの子は、ちゃんと“届く言葉”で話してる」
声には出さなかったが、誇らしさが胸に湧いた。
あやのが、誰よりも人の痛みと向き合っていることを、知っていた。
そのころ、魔界技師団詰所──別室にいる司郎正臣は、遅れて届いた同じ手紙の写しを片手に、眼鏡越しに唇を曲げていた。
「……あの子ったら。蒼穹?赫焔?……どこぞの詩人と決闘でもしてんのかしら」
しかし笑いはすぐに消える。
文章の行間に滲むあやのの繊細さ──
それが、建築家の司郎には痛いほど伝わっていた。
「この子、“名前を与えること”を躊躇ってたのよね。それをいま、正面からやってんの。冥界でも、精霊界でも、ちゃんと“記録者”になってんの」
彼は古い紙のスケッチ帳を開いた。
そこには、まだ未完成の設計図──
《四界連結ポータル施設構想・初期案》が広がっている。
「……帰ってきたら、四人で作んのよ。あたしと、梶原と、あんたと、あんたの記録たちでね」
静かに、あやのの便りをスケッチの上に置いた。
その夜──
湯けむりの外、静かな夜気の中で。
梶原は、湯宿の裏庭で幸を撫でながら、月を仰いだ。
「お前も、見守ってやってくれ」
声に出したわけではない。
けれど、風がひとすじ、肩を撫でて通り過ぎた。
まるで、誰かが「大丈夫だよ」と言ってくれたようだった。
司郎は設計卓の上に小さな精霊灯を点した。冥界で灯された灯火のレプリカ。
その灯に、目を細めて言う。
「“記録”って、建築と似てんのよね。思い出の上に、言葉の梁を渡す。誰かが通って、初めて意味を持つ。……だからあたしも、あの子が通ってくれる道を、ちゃんと作っとくわ」
あやのの旅は遠く、彼女の肩に背負う記録は重い。
それでも、見守る人々は確かにここにいて、
言葉を持たずとも、確かに“繋がっていた”。
──そして、次の手紙はまだ書かれていない。
けれど、もうすぐ届く。
水の霊域からの、静かな記憶の音とともに。




