第十九章 赫焔の焔
──炎がすべてを拒む場所。
精霊界の南、かつて「火の王座」があったとされる霊域《焔の深岬》は、いまや燃えることすら止めた死地だった。
溶岩も火柱もない。
ただ灰が、ゆっくりと舞っていた。
火とは、「記録されることを拒んだ熱」だったのだ。
「赫焔様が……いない?」
あやのは焔の王座跡に立ち尽くした。
灰の丘、その中央に、ただひとつ燃え残る**黒き熾火**だけが、赫焔の存在を示していた。
「赫焔は、自らの名を焼き捨てた。己の記録を誰にも触れさせぬよう、すべてを灰に変えたのだ」
背後から、風の声──蒼穹が淡く風に乗って囁く。
「君が触れるなら……傷を負う覚悟で行け。赫焔は、忘却を選んだ精霊王。記録の刃すらも焼き払う火だ」
だが、あやのは歩を進めた。
「……それでも、火って、誰かの心に触れるから生まれるものだと思う。誰にも届かない火なんて、本当に存在するのかな」
あやのが熾火に手をかざしたその瞬間──
灰が、唸った。
風が後退し、熱が逆流し、炎が咆哮を上げた。
「──記録者が、なぜ来た」
赤黒い炎の中から姿を現したのは、赫焔。
焦げた甲冑に似た衣。双眸は燃えるように赤く、髪は燃えさしのように揺れていた。
「余は、記録を否定する王。
記録は後悔を遺す。
記録は哀しみを繰り返す。
記録は、未来を焼き尽くすと知れ!」
赫焔が放つ火は、言葉そのものを焼き尽くす火。それは“書こうとした瞬間に、意味を消し去る”火だった。
あやのの巻物が焼ける。
羽根ペンが砕ける。
星眼の光ですら、掻き消えかけた。
だが──あやのは動かなかった。
「……赫焔様。それでも、あなたが焼き捨てなかった火がある。それが、いまも燃えてるから、わたしはここに来れたんです」
赫焔の赤い瞳が揺れる。
「……それは、残り火だ。弱く、消えかけ、灰に埋もれた……ただの火屑」
「違う。それが、焔なんだよ。誰かが灯した火が、誰かの心で残ったからこそ、いまもここに在る。それはもう、“あなたの記録”なんです」
あやのは、そっと手を伸ばす。
赫焔の胸──そこに燃えていた、小さな小さな“記憶の火”。
かつて彼が、ある少年に与えた“灯火”。
「泣くな、小さき者よ。この火は、おまえの夜を照らすためにある。明日が来なくとも、この焔がおまえを守ろう」
──それは、赫焔が唯一**“名乗った”記憶**だった。
あやのの星眼が、それを記録として包み込む。焔は、再び赫焔の名に集まり、霊域全体が赤く揺れた。
「……記録者。おまえは“燃やすこと”を怖れぬか?」
「怖いです。でも……“燃やさなければ残らないこと”も、あると思ってます」
赫焔が、ふっと笑った。
その笑いは、剣ではなく、火鉢のような温かさだった。
「ならば書け。赫焔は、かつて“誰かの夜を守る火”であったと。それを記してくれるのなら……我は、もう消えても構わぬ」
「……消えないでください。今の赫焔様を、わたしは“未来に灯したい”から」
──次の瞬間、赫焔の周囲に火の精霊たちが集う。
それぞれの火が名を取り戻す。
“アカリ”
“レン”
“コウカ”
“シズク”──
皆、赫焔という“名”の焔を中心に再び燃え出した。
霊域に、霊灯が灯る。
赫焔は、背を向けて言った。
「……次は、水の界だろう。清瀧には、かつて我が焔で“奪ってしまった記録”がある。謝っておけ。あやつはまだ、我を許していない」
静かに微笑み、頷くあやの。
──巡礼は、まだ続く。
次なる地は、水の霊域《澄みの泉庭》。
そこに佇むは、冷たくも深き記憶を湛える王──水の精霊王・清瀧。
そして、彼が封じた“水底の記録”とは──




